2019/04/13

三島由紀夫 死への誘惑その2 奔馬



   戦後の、平和、自由、人類としての世界といった枠組みのなかった時代を三島由紀夫は「豊饒の海」の第一部春の雪と第二部の奔馬で描いた。その時代天皇は至高の存在で、死はみじかにあった。

 第一部のセピア色した日露戦争の写真で始まる「春の雪」は主人公松枝清顕の大正時代、貴族社会の悲恋の物語。第二部「奔馬」は、この松枝の生まれ代わりの飯沼勲が主人公になり、激動する1932年(昭和7年)の日本を舞台に物語が展開する。 
  
 飯沼勲は、陸軍の堀中尉を訪れる。「勲は笑った中尉の顔を見て、むしろ過ぐる桜のころにここを訪れるべきだったと思った。中尉は、空を黄いろくするやうな演習場の風塵の中から帰ってきて、桜の花びらのついた埃だらけの長靴を脱ぎ、春と馬糞の匂いにあふれたカーキいろの軍服の肩に、襟に、幼い赤と金の光彩をきらめかせて、少年たちを迎えるべきだった。」そして堀中尉は飯沼薫に「お前の理想とするところは何か」と尋ねる。「昭和の神風連を興すことです。」さらに、「よし、じゃ訊くが、お前のもっとも望むことは何か」と問われ「太陽の、日の出の断崖の上で、昇る日輪を拝しながら、かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹の根方で、自刃することです。」

 この飯沼勲の信奉する神風連の物語に対して、本多は手紙で、新島襄のキリスト教の布教のため学校をつくるも迫害を受け、京都に逃れ、同志社の基を築いた例を上げ「歴史を学ぶことは、過去の一時代の嵌め絵から、一定の形を抜き出して来て、現代の一部分の形に当てはめて、快哉を叫ぶことではありません。」といって心情の純粋性と歴史の混同をたしなめた。

 非合理の行動主義者の幻の夢は、「色さまざまに変わる美しい一つの鞠」となって蹴り込まれ、冷たいけれども整然とした法秩序建築の中、合理主義者本多繁邦の確信する世界に対しひびを入らせることになる。

 飯沼勲は、昭和の神風連になるべく、腐敗した政財界に鉄槌を加える行動を仲間とともに起こそうとするが、決行前に逮捕され裁判を受け、釈放される。釈放後、財界の黒幕蔵原殺害を一人で実行し、自刃する。最後は「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」で閉じられる。ほとばしる情動は理性的判断、理知の抑制を飛び越え奔馬となって行動に駆り立てた。



 民族精神の擁護、廃刀令に反対して、古代と同じ、祭祀主宰者としての天皇復古の実現を求めたのが神風連の乱で、明治9年、政府機関である熊本鎮台を襲撃した。
 帯刀は日本が神の国である象徴で、刀剣は神器であり、それを捨てることは国の風儀の否定になるとして、明治政府に刀剣と槍で武力攻撃をしかけた。しかし、時の明治政府の銃の前に鎮圧され、多くは自決した。当時から、神がかりの神秘主義的秘密結社の反乱と呼ばれた。

 昭和の初期、桜、カーキ色の軍服、赤と金の徽章に象徴される、陸軍皇道派もまた、天皇をかかげ天皇制の下の人民国家の樹立を目指して行動を起こした。そして、天皇の率いる政府軍に鎮圧され、軍内過激派のクーデターとされた。


 
 武士道は坂東武者の名誉感と自負心、そして主従の関係、状況に対応する戦闘者の行動規範に始まり、戦闘がなくなった江戸時代においては、極端な形の葉隠として残った。
 江戸時代も18世紀に入り、戦乱の世から100年経ち、「みな人は江戸に行くらん秋の暮れ」といわれた太平の時代になった。鍋島藩の若い武士も現生の衣装や、損得勘定にうつつを抜かしていた。この風潮に対して、当時の江戸時代の現実にはなかった武士の精神を語ったのが葉隠で、戦国武士の思い出の神話化であり、当時においても過激な思想の口述であった。
 「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」に象徴されるその先鋭で過激な極論は、切腹礼賛ではなく、日常の生活において、最悪の事態に備える心構えを説いたものだった。そして、武士の無条件の絶対的な主従関係、君臣の契りは、片思いこそ純粋の恋愛であるように打算のない、極端なまでの純粋化、人格の同一化として捉えられた。そして、忠誠を尽くすためには諫争、君を君たらしめる為の努力が義務となる。

 この主君への絶対的な忠誠心は、幕末に再現された。幕末は足利室町末期元亀天正の世の再来と捉えられ、武士にとっての名誉心、自主的決断、目的をもった生き方が蘇る。幕末の志士の行動は尊皇の意識とともに日本の独立と名誉の確保が、自分自身の独立と名誉の確保であるという武士道がもとにあり、その考えは農民や名主、庄屋などの層にも共有された。そして、藩主に対しても、諌言し、その誤りを正すべく行動を起こした。



 この幕末から明治初期の武士の心情は、佐賀の乱、神風連、そして最後の武士の戦いとなる、西南の役の鎮圧とともに消滅し、開国し、富国強兵策をすすめる現実派が政府の実権を握った。
 しかし、西南の役の翌年に大久保利通は暗殺され、明治政府にとって、天皇の地位をどう定めるかが次の重要な問題となった。祭政一致の司祭者か、有徳の君主か、憲法の下の立憲君主か、あるいは共和制かなど様々な勢力がそれぞれの案を提案した。最終的にはドイツ式の憲法の下の君主として立憲君主制の明治帝国憲法が1889年(明治22年)に制定された。そして尊王も忠君愛国の家族的国家観に変質し、武士の持つ人と人のつながりによる忠君もまた武士階級の消滅とともに消え去った。

 人の心は、どのような神話も物語も、美もつくることができる。そしてそれを信じて行動する。奔馬の中に描かれた主人公飯沼勲の行動の生まれる過程は鎌倉時代の武士に源があった。そして政治の理想を古代の祭政一致の神政ユートピアに求めた。平和な時代に眠っていた思想が幕末の動乱期に復活し、さらに昭和の時代にも再び過激な人々を行動に
駆り立てた。

 三島由紀夫はその心情を奔馬に描き、第3部暁の寺で輪廻転生、唯識論を語り、第4部の天人五衰の「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。」で豊饒の海を終わらせる。自らも幻に対して諌言し、幻をめがけて行動し、自刃した。


            参考   丸山真男講義録 武士のエートスとその展開

2019/03/10

幕末の国学者 橘曙覧


たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし 花の咲ける見る時

たのしみは 庭にうえたる 春秋の 花のさかりに あへる時時

                                    橘 曙覧


  橘 曙覧は1812年(文化9年)現在の福井市に生まれる。文具商を営むも、28歳の時弟に店を譲り、愛宕坂に暮らす。33歳の時、飛騨高山の国学者田中大肥の下で学び、和歌をよみ始める、37歳の時三つ橋に住み、「藁屋」と呼んで終生の住処とした。 このころから徳川幕府は、幕末と呼ばれる激動期になる。橘曙覧42歳の時ペリーが浦賀に来航し開国を迫った。その後安政の大獄、桜田門外の変が起き、54歳の時福井藩主松平春嶽に仕官を勧められるも断る。

花めきて しばし見ゆるも すずな園 田庵(たぶせのいほ)に 咲けばなり
                                                                                                               橘 曙覧

すずな園 田ぶせの庵に さく花を しひてはをらじ さもあらばあれ
                           松平 春嶽

 徳川時代に中国文化の儒教とりわけ、朱子学が統治の中心に置かれ、機能していた。その朱子学も中国とは国情が異なり、日本的に変化して取り入れられた。
 19世紀に入り徳川時代の後半、幕末の日本はその思想、精神が混迷をきたし、幕府の組織の弱体化を招き、各藩への支配が弱まり、同時に、経済的にも行き詰りをきたしていた。さらに、ロシアが蝦夷地に現れ、交易を求め、イギリス、フランスも開港を求めた。そして、アメリカはペリーが軍艦で江戸の近くに来航し、開港を迫まり、幕府は1854年(嘉永7年)日米和親条約の締結を強行する。

 それに対して、開国に反対する尊王攘夷派が台頭し活動を起こした。徳川幕府は、井伊直弼の下で、安政の大獄と呼ばれる反対派の強行弾圧を行った。松平春嶽は井伊直弼の日米修好条約に反対し、安政の大獄で謹慎処分を受けた。桜田門外の変による井伊直弼暗殺後は幕閣となり公武合体をすすめた。


  国学は徳川時代の中期、契沖の歌学の革新から始まる。外来思想に影響されない日本の美的価値を、古来のうた、特に万葉集に見出し、国学の基礎をつくった。この日本の古来の歌の研究は荷田春満に受け継がれ、賀茂真淵は上代日本の歌人になりきり、古道を明らかにした。それを完成させたのが本居宣長で、漢意(からごころ)に対する、大和意(やまとごころ)を見いだし、儒教、仏教が伝わる以前には人々の心は清く直かったと外来イデオロギーを批判した。

「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいへるは、いとうるさし、人は教えよりてよくなるものにあらず、   教えのなきこそ尊けれ」「事しあればうれしかなしと時々にうごくこころぞ人のまごころ」として日本古代からの精神、日本固有の道を見出だした。


たのしみは 神の御国の 民として 神の教えをふかくおもふとき

たのしみは 鈴屋大人の 後に生まれ その御諭しを うくる思ふ時

国学者として橘曙覧は本居宣長(鈴屋大人)を尊敬し、独楽吟の中でその楽しみをうたった。

                
   一方、幕末の尊王攘夷の思想は、国学とともに、後期水戸学が大きな役割を果たす。
 歴史は、その国の文化の変化を記すもので、社会や文化をどのように捉え、理解していたかを現す。水戸学は、水戸光圀が彰考館を創設して、大日本史を編さんしたことに始まる。明の王室から日本に逃れた、重臣朱舜水の助言の下に、日本の歴史の正統を大日本史で示そうとした。これが前期水戸学で この日本史の研究を受け継ぎ、この研究機関から、後期水戸学がうまれる。その代表が会沢正志斎、藤田東湖で反幕府の急先鋒となる。

 はじめ、藤田東湖の父藤田幽谷が「正名論」で、生名とは社会の人の秩序を明らかにすることであり、正当な統治者は誰かを問題にした。この大義名分論による尊皇論は、はじめは敬幕論を伴っていた。

 さらに儒教理論の中心に、国内統治における王道と覇道がある。この王覇の弁が幕末になると尊王の意味がしだいに変化し、王道を尊ぶことはすなわち天皇を尊ぶことであり、覇道とは武家政治のことであるとして、尊王敬幕が尊皇倒幕になってくる。

 同じように儒教の世界観としての華夷の弁、すなわち中心に位置するのが中華で、その周りに夷狄が住むという認識が日本に適応され、幕末の日本が中華であり、周りの国々、外国は夷狄であり、これを撃つという攘夷の思想に変貌する。

 この橘曙覧のように、古代の心に共鳴する歌の道に始まった国学は、政治とは距離をおいていた。幕末になって、外国からの開国の強要、国内の混乱から次第に変貌をとげ、国学は天皇親政の古にかえれと叫ぶ皇国主義、日本主義の復古イデオロギーになってくる。

 国学が尊王論の根拠を明らかにする一方、儒教をもとにした後期水戸学も尊王敬幕から尊皇倒幕に変化し、2つの潮流があわさって反幕府運動、尊王攘夷派を生み出した。それに対して、幕府も公武合体を行い、延命を図った。しかし反幕府の奔流を押しとどめることはできなかった。


たのしみは 三人の児ども すくすくと 大きくなれる 姿みる時
 
たのしみは 妻子むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時

たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時


                   
 橘曙覧は権力や名声を求めず、清貧の生活を選び、家族と自然と歌とともに暮らし、幕府が崩壊し、大政奉還と王政復古が成った1868年(慶応4年)57才で亡くなる。彼の死後10日目、明治元年になり新たな時代が始まった。

                  

2019/02/13

上田秋成 雨月物語と春雨物語


「私はせつない生活をしていた期間にこの雨月物語をよみました。夢応の鯉魚は、三井寺の興義といふ鯉の絵のうまい僧の、ひととせ大病にかかって、その魂魄が金色の鯉となって琵琶湖を心ゆくまで逍遥した、といふ話なのですが、私は之をよんで、魚になりたいと思ひました。」
 太宰治は中国の白話小説をもとにした「夢応の鯉魚」をリメイクした作品「魚服記」を発表した。

 羅子は水滸を撰し、而して三世唖児を生み、
紫えんは源語を著し、而して一旦悪趣に堕つる者、
蓋し業を為すことの迫る所耳

「羅漢中は水滸伝を著したために、子孫三代にわたり啞の子が生まれ、紫式部は源氏物語を書いて、一度は地獄に落ちたが、それは思うに、彼らがありもしない嘘の物語を書いて、業の報いを受けた。
 明和5年3月雨晴れて、月おぼろの晩春の夜明かり窓の下でこの書が編み上がり、これを梓氏に与える。題して雨月物語と言う」の序文で始まる雨月物語は1776年(安永5年)上田秋成43才の時に出版された。
 雨月物語は、白峰、菊花の契り、浅茅が宿、夢応の鯉魚、仏法僧、吉備津の釜、蛇性の婬、青頭巾、貧福論の9編からなる怪奇小説で、、個人の心のうちにある感情、思いのくさぐさをその奇抜な内容に託した物語であった。

 「白峰」では崇徳院の怨霊が西行のいさめにも関わらず、王道の倫理を押しのけて、悔しい想い、怨念を描き出した。
 「菊花の契り」は母と二人で暮らす左門がある日行きずりの武士を看病し、兄弟の契りを結ぶ。病気が回復した武士は出雲の軍学者宗右衛門で9月9日には戻ってくると約束し故郷に帰る、そこで監禁され、約束が果たせなくなる。その約束を果たすためには幽霊になっていくしかないと自刃した話。のちに走れメロスの友の信義の江戸時代版とも言える。「浅茅が宿」は夫の約束を信じて待ち続けた宮木は、すでに亡くなり、荒れ果てた我が家に住んでいたのは、宮木の霊、幻だった。
 風に乗って旅する宗右衛門の霊魂や浅茅が宿で夫の勝四郎の帰りを7年待つうちに窮死した宮木の霊魂、そして崇徳院の怨霊、これらは、希望や絶望あるいは怨みを欲望を持った身体が消えた後、実体のない霊がその死者の気持ちを実現する物語である。

  この雨月物語は、後の日本の小説家に大きな影響を与える短編小説集で江戸時代読本の代表作となる。

 上田秋成は1734年(享保19年)生まれ、4才の時、大阪堂島の紙油商上田家の養子となる。懐徳堂という私塾で学び、33才にして、「諸道聞聴耳世間猿」と「世間妾形気」を著す。
 国学を学ぶも、38才の時火災で家を消失、それを期に儒医に医学を学び、42才になり、大阪で医業を始める。そして43才の時、雨月物語を世に送る。

 この新しい小説、中世の仏教的あるいは、近世の儒教の勧善懲悪から独立した物語が生まれた背景には、江戸時代の文化の変化があった。
  黄檗宗は禅宗の一派で、明の末期清の政権に迫害され17世紀日本に渡り、特に徳川綱吉の時代、柳沢吉保が彼らを、厚遇し、各地に寺院をたて、禅宗の寺院とした。この時の政策ブレーンの荻生徂徠が岡島冠山を迎えて、中国語を習い、古文辞学を打ち立てた。これが文学芸術と政治を切り離し、さらに、岡嶋冠山が中国の俗文学を数多く翻訳し、中国俗文学を日本にもたらした。禅宗の黄檗派はまさに明の文化そのものであり、江戸時代の仏教に大きな影響を与えた。

 18世紀の中頃、売茶翁という一人の僧が京都で文化の中心に存在していた。売茶翁は17世紀、九州肥前に生まれ、僧名は月海と言う。月海は明の滅亡の時、日本に亡命した僧侶たちの寺院、黄檗山万福寺などで修行する。50才頃から京都に出た。黄檗僧が江戸時代の日本に新しい飲み物としての煎茶を持ちこんだ。
 この煎茶は明の文化の象徴であり、この売茶翁の煎茶サロンで、京都の文人が集まりチャイナ スクールを作り、中国の絵画や文学や陶淵明などの生き方を学ぶ場所となった。 与謝蕪村、池大雅、上田秋成はこの中国文化の影響を受け、江戸時代の京都、上方の文芸を作り出した。その後、文化の中心は江戸に移り、京都文化がなお輝きを保っていた最後の時期に当たる。

 秋成53才の時、国学者として国粋的な復古主義の本居宣長を批判、宣長の日の神、天照大神の生まれたわが国は、万邦を照らしている国であり、世界中でこんな優れた国は無いと言ったのに対し、世界地図を見れば、日本が世界の中心といっても誰も納得しないであろうといって論争になる。

ひが事をいふてなりとも弟子ほしや 古事記伝兵衞とひとはいふとも と宣長を揶揄し、

 敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花 と宣長が詠んだのに対して

 敷島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花 と茶化した。

 国学は和歌を通して、歌の心を、中世的秘伝の口授を否定し、革新し、こころの表現としての歌学を唱えた契沖に始まる。それと同時に仏心や漢意に影響されない、それ以前の日本の道を明らかにしようとするやまとごころの考え方を本居宣長が主張した。この歌学と古道の二つのみちを最初に合流させたのが賀茂真淵で、これが本居宣長さらには平田篤胤に受け継がれる。
 この国学を賀茂真淵から学んだ上田秋成は、芸術主義、文人主義者的活動の傾向が強く、国粋主義的、日本主義の本居宣長と対立することになる。その後、本居宣長の説より古道のイデオロギーをさらに強め再構築した平田篤胤が、幕末の天皇親政の復古主義、攘夷論を支えることになる。

 秋成は55才で医業をやめて、京都、奈良、大阪を転居しつつ随筆山霧記や和歌の紀行文、歌文集つづらぶみ(藤冊子)を著す。60才頃、太田南畝は大阪で役人をつとめ、上田秋成と会い、意気投合している様子を「胆大小心録」に描いている。
秋成は、晩年に短編小説集「春雨物語」を書き残した。その中で血かたびら、二世の縁、目ひとつの神、死首の咲顔 など人の情を寓話に託した物語を残した。
 その人間観は、完全な悪人や善人は登場しない、人は皆過失をおかしうる、そして、変わりうると考えた。最後の樊噲 は 雨月物語の青頭巾の主題と同じく「心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る」と荒くれが改心し仏僧になる物がたりであった。

 江戸時代の文学の世界にたどり着くまでに、言葉の壁と共に江戸時代の人々が世界をどう見ていたかを知るため、大きな歴史変化の断層を乗り越える必要がある。ひとつは戦後民主主義の世界観で、第二次世界大戦の敗北による民主主義と人権思想の定着と、家制度と天皇制国家主義の否定。もう一つの層は、明治維新による儒教を否定し仏教の扱いを変えた断層で、その二層の奥に江戸時代の精神世界が広がる。仏教の輪廻転生と儒教の仁義忠孝の世界で、妖怪の住む世界である。
 言葉の壁と文化の断層を乗り越えた時、そこには新鮮な文学の世界が広がっていた。それらの作品はのちに、多くの作家に影響を及ぼした。


 

2019/01/23

突破もの 平賀源内


  


 近世初期の思想界を独占していた儒教とりわけ朱子学は、時代とともに、社会に合わなくなり次第に崩れようとしていた。その時代に本草学者、物理学者、文人戯作者、そして加茂馬淵の門人でもあったリベルタン(自由主義者)、時代の先駆け(先走り)平賀源内は生まれた。

 18世紀になると、国学が起こり、蘭学や洋学が江戸の世界に入ってくる。 享保の改革で幕府は実学にかぎって蘭学を認め、西洋の学問として蘭学が盛んになり、長崎でオランダの学問を学ぶ人が増えてきた。平賀源内も長崎に留学し洋画や本草学、今で言う博物学を学ぶ。 国学は荷田春漫が、古典を研究することによって古代の道、すなわち「から心」、「仏心」によって歪められない以前の純粋な日本の古い道を求める。加茂馬淵と本居宣長によって完成の域に達する。平賀源内も、加茂真淵のもとで国学を学ぶ。

 1763年(宝暦13年)36才の時、平賀源内最初の小説「根南志具佐」を天竺浪人の名前で出版する。 初めての江戸の言葉で書かれた江戸文学で、歌舞伎の女形の溺死を題材にした。閻魔大王が歌舞伎俳優に惚れ、地獄に連れてくるように竜王に命じ、その命を受け、一匹の河童が若侍に化けてこの世に派遣される。江戸見聞をする蜆とさざえ、鯨と海老は江戸の下町を見て聞いて、江戸の活気を、江戸のくらし、風俗をテンポ良く語る。
 序文には「其詞は違へども 、食うふて糞して寝て起きて、 死んで仕舞ふ命とは知りながら、めったに金を欲しがる人情は、唐も大倭も、昔も今も易ことなし。」で始まる。単純な閻魔大王の恋物語の中に、窮屈な儒教を笑い飛ばし、上方守旧派を打ち負かす、文化の力をつけた江戸の代表作となる。この一作が、、戯れに世を諷する江戸戯作のはじまりの作品で、平賀源内は四国の讃岐から上京して数年で、江戸の文化の発信者、江戸の流行作家となる。

 続いて、洒落精神満載の世界諸国巡り「風流志道軒」を出版する。この中で、浅之進は、唐人 たちのため不二山の張り抜き細工を作って見せてやろうと、紙とのりを積んだ大船30万艘引いて、 唐土の海へこぎ出す。これを阻止しようと日本国の神々が集まり重要会議を開く「一族みんな出張してしまえば、風邪を引くものが一人もいなくなっちまって医者が困りはしないだろうか」と風の神が心配する。「 どうせ八百屋が浅漬宅庵になり、魚屋が稲田安康に変身し、餅屋は佐藤養閑と改名し あめ売りが雨井堯仙と名乗って医者をやっているようなものだ。はやらなくなったら元の商売に戻るだけさ」と八百よろずの神が駄洒落をいう

 そして浅之進は小人国から長脚国へ、長脚国から手長国、そして蝦夷、琉球、あるめにあ、天竺、阿蘭陀と世界中を仙人によって授けられた羽扇一本で飛び回る。



 風流志道軒伝の中で、時代に合わなくなった儒教を批判して「唐は唐、日本は日本、昔は昔、今は今なり。古代といえども礼楽は同じからず      聖人の政なりとて、井田の法を行ば、百姓どもには安本丹(あんぽんたん)の親玉にせられなん」と「主の天下をひったくる不らち千万なる国ゆえ、聖人出て教給ふ。日本は自然に仁義を守る国故、聖人出ずしても太平をなす。」と述べてその教条主義を批判した。


 平賀源内は1728年(享保13年)讃岐の生まれ。22才の時、高松藩御蔵番の役職をつぐ。
1752年(宝暦2年)から1年間長崎に、本草学研究の目的で行く。家督を妹夫婦に譲って、1756年(宝暦6年)28才で江戸に出て、本草学の物産会である薬品会を開き、1763年には加茂馬淵の門人になる。この年に小説「根南志具佐」と「風流志道軒伝」を出版する。

 その後、浄瑠璃の原作者となり、また各地の鉱山調査を行い、江戸の神田では大田南畝や画家晴信などの狂歌仲間と生活し、根無草後編も書いていた。そして才能のある千里の駒もよき伯楽にも巡りあえずと嘆息し、自らを小間物屋と称した。

     かゝる時何と千里のこまものや伯楽もなしこづかひもなし

1770年(明和7年)かねてからの夢を実現するため、時の権力者田沼意次から「阿蘭陀翻訳御用」の名義をもらって、阿蘭陀本草翻訳のために再び長崎に旅立った。その間に、杉田玄白は前野良沢らと苦労の末阿蘭陀語を翻訳し1774年(安永3年)に解体新書が刊行された。その表紙や挿画は源内が秋田から連れてきた若い画家小田野直武が描く。しかし日本物産大系を翻訳出版する願いは果たせず、友である玄白に先を越されたことになる。

 源内は2年後、長崎から持ち帰った壊れた機械エレキテルの復元に成功し、多くの見物客に人気を博した。 
 同じ年「天狗髑髏鑑定縁起」を出版。弟子の大場豊水が川から変な死骸の頭を、薬品鑑定をしている源内と門人たちの元に運び込む。これを見て源内「これ天狗のしゃれこうべなり」と鑑定する物語で、医者は陳皮も知らずといってからかい、既成の学問を笑い飛ばした。
 「牛の糞やら胡麻味噌やら、やみらみつちやの流渡り、海参(なまこ)の尻やら頭やら、蟹の竪やら横道やら、にうががにうへとちりあべこべ銭あるものは利口に見え、出る杭は打たるゝ習ひ、天狗のあたまの真偽を論じ、時を移せば腹がへり、日が重なれば店賃がふえ、月が延びれば質が流るゝ。」と源内節満開。

 江戸時代のように、崇高なもの、超越的なものより、卑近な日常と現世主義の濃厚な文化のもとでは、儒教を揶揄したパロディーの力は時代を変える方向より、手放しの泰平の世の賛美、現状肯定に向かう。そして後年の源内の作品を、太田南畝は編集した風来小品集「飛花落葉」の序文で「憤激と自棄ないまぜの文章」と書いているように、膨大な未完の構想と現実の間で、 人気がありながら、世間から理解されず、思いを実現できない生活を送っていた。

 1779年(安永8年)ささいなことで人を殺傷し、入獄。その年52才で獄死する。

 平賀源内、大田南畝、山東京伝と連なる3人の突破者の時代は、江戸の文化を新しく変え、豊かなものにした。 18世紀はじめ、徳川吉宗により享保の改革が行われた。吉宗のブレーンであった荻生徂徠は古文辞学で、朱子学から中国の古にかえるべきと唱えた、これが、前近代的公と私の未分化状態から、私的領域文芸や学問と公的な世界政治との分離を行なった。そして経済の発達によって豊かになった人々の中から江戸文化がつくられ、田沼意次の時代に頂点に達した。

 しかし、2度目の幕府の思想のたてなおしを目指した寛政の改革が行われ、寛政異学の禁で、儒教のうち朱子学を正統とし、教育の中心にすえて、儒教倫理の徹底を試みた。閉鎖された国の壁は厚く、再び徳川イデオロギーは復活した。

2019/01/03

江戸の華 山東京伝 と 優雅なユーモア 与謝蕪村


 江戸時代、俳句とその内容を墨絵や淡彩画で表現し、絵と文が一体となった俳画が蕪村の手で完成された。蕪村は絵画とりわけ文人画といわれる南画を描き、やがて俳句の世界でも活躍を始める。それを組み合わせ、さらには絵つきの文を印刷出版する。この絵つきの本は江戸では黄本と呼ばれ、田沼意次の時代に、庶民の熱狂的人気を獲得した。その代表者が山東京伝で、絵の才能と切れのいい文章で痴れ者ぶりを発揮した。京の優雅さや儒教道徳を洒落のめす力で時代のトップランナーとなった。


 17世紀の中頃、江戸で生まれた荻生徂徠の古文辞学は、朱子学も一つの学派に過ぎないとして人情、個人の情を重んじ、享保以降の陽明学や老荘思想の流行、心学や国学などの新思 潮が生まれる素地をつくる。18世紀になると儒教道徳にも実際的な気風が生まれ、都市生活は自由になり、経済は豊かになり、江戸っ子など庶民のための文芸、文化が盛んになる。18世紀は江戸文芸の最盛期を迎えることになる。

 蕪村の生まれた年が京保の改革の始まる年、1716年(享保元年)で、この時から寛政の改革までが、蕪村の活躍した時代、江戸時代の文化が上方から江戸に中心が移る時であった。
 蕪村は大阪に生まれ22才の年に江戸で絵画と俳句を学ぶ。中国の南画を学び、漢詩を学び、中国文化を終生憧憬していた。
 1757年(宝暦7年)42才から俳諧師として京都に定住し俳句と絵を組み合わせた独創的な俳画をつくる。そして俳文という散文の詩を作り、そこに滑稽な絵を載せたり、妖怪絵巻も描いた。それらの作品には優雅なユーモアがみられる。「新花摘」の狐狸談の物語は1797年(寛政9年)に刊行された。


 元禄時代上方を中心とした出版の文化は、18世紀蕪村の時代になると、江戸にも生まれ、両者が混じり最も豊饒なる江戸の文化が花咲いた。 
 江戸は百万都市となり、豊かな庶民も増え、上方の上品な芸にはない独自のエンターテイメントの成り立つ市場規模になった。出版業界は確立し、蔦屋重三郎などが台頭してきた。彼らがプロデューサーとなり、あとは有能な絵師、作家の登場を待つばかりとなっていた。

 1782年(天明2年)山東京伝21才の作品「御存商売物」でデビューする。
本の本と言うコンセプトで、面白かったとか、すごひ、と様々の本を擬人化し、評価して当時の出版事情をパロディー物語とした。上方文学とりわけ八文字屋の京阪小説を茶化し、黄表紙や洒落本、一枚絵や、柱絵という柱に貼る細長い浮世絵が流行し、赤本黒本は流行遅れになる様を描いた。そしてその時代のはやりの食べ物などの流行通信となり、江戸で高い評価を得る。黄本は江戸庶民の心意気の現れで、人々は強い愛着を持ち、上方の文芸を鈍重で古くさいものとした。

 1785年(天明5年)には金持ちの一人息子、ぶ男でうぬぼれものの物語「江戸生艶気樺焼」を出版し、黄本作家として人気が沸騰する。主人公艶二郎のしし鼻は京伝のシンボルとなる。京伝自身は大柄で、美男子で、容貌においても江戸の華であり、粋で、洒脱な生粋の江戸っ子だった。
 その後も「孔子縞ま時藍染」で幕府の儒教奨励を茶化し、「時代世話二挺鼓」で田沼意次の失脚を題材に、早業競争にパロディー化した作品などを次々と刊行した。

 この時代になると徳川イデオロギーはゆるみ、道徳重視から経済重視になってくる。
文芸作品の商品化が進み、京伝は「隠者めかした者が、煩悩に束縛される人々を哀れみ、自ら高踏する態度は銭無し組の負けおしみ、仏教の空も、般若の空観もない、金がすべてを可能とする」と大楽の中で語っている。
 
 京伝29才、1790年(寛政2年)「小紋雅話」でうなぎやネズミ、人の頭を図柄と して着物のデザインをつくり、それを売り出したり、あるいはゆきのあしでは白地に二の字の下駄跡 、人の内股の👣、そして犬の足あと🐾をデザインした。近代的蕪村の創作を飛び越え現代の商業デザイナーの先駆けともいえる作品を残した。

 寛政の改革で、京伝31才の時1791年(寛政3年)幕府に手鎖50日の刑を受ける。
 1793年(寛政5年)に京橋銀座に紙煙草入の製造販売をを始め、デザイナー(意匠作家)の仕事に没頭する。京伝の店の包装紙に謎絵を描いて大人気となる、そして曲亭馬琴は、京伝の店の煙草と煙草入れを擬人化した恋物語をつくる。 
 寛政の改革で、幕政批判や風刺が禁止されると、作品は滑稽さの極みの追求と、仁義忠孝の儒教的教訓話になっていく。政治を語れず、宗教が卑俗化した後の滑稽さは止めどのない馬鹿馬鹿しさのパレードとなる。
 1809年(文化6年)痴れ者ぶりを発揮した人が、蛇の真似をし、蝶々になり、蝙蝠になり、鳶になり、手長海老になり、蝋燭になる。これを歌川豊国の絵でを出版したのが「腹筋逢夢石」、大評判をとり続編が次々と出て、その翌年「座敷芸忠臣蔵」でこのシリーズは終わっている。
 この滑稽本の二大書物は物語にとどまらず、その形態模写は実際に当時の人々がそれを真似て遊んで楽しんだ。   






 そして、読本では、滑稽さを通俗道徳のもとに描いて、馬琴と人気を争い多作になる。
合巻、読本、洒落本、滑稽本それぞれの流行にそれなりの作品を残して山東京伝は生涯戯作者であり、店主であり、江戸っ子の通人であった。晩年は考証学に没頭し、「骨董集」を未完のまま、文化13年56歳でなくなる。


 山東の嵐の後に破れ傘身は骨董の骨にこそなれ       太田南畝

2018/12/22

江戸時代パロディー作家 大田南畝


   役人の子はにぎにぎをよく覚へ

  役人の骨っぽいのは猪牙に乗せ    (  猪牙とは吉原に行く猪牙船のこと)


 江戸時代最も人気のあった文芸は俳句だった。 芭蕉の句は天才的ひらめきによる高踏的境地を詠み、一茶は崇高さとか敬虔な高みを目指すより平易で世俗に近い世界をよんだ。
 この時代さらに庶民に人気を呼んだものが川柳で、俳句から季語をなくし、より庶民的、遊戯的な川柳が生まれる。1765年(明和二年)に柄井川柳による俳風柳多留が大流行し、川柳と呼ばれるようになり、現在もこの人気が続いている。

 同じように朝廷の伝統を受け継いだ和歌をパロディー化したのが狂歌で、漢詩をパロディー化した狂詩も田沼時代流行し、人々は川柳や狂詩、狂歌で、短い文字の中に権威を笑い偽善を暴いて言葉の遊戯をたのしんだ。
 最初狂歌は、上方で流行し、その後1769年(明和6年)には大田南畝(四方赤良)を中心にして、狂歌会というサロンをつくり、江戸で大流行した。狂歌師たちは、宿屋飯盛、朱楽菅江(あっけらかんこう)などの狂名で集まり、武士も町人も、職人も階級に関係なく参加した。この狂歌の仲間に北尾政演(山東京伝)や歌麿がいた。彼らが黄表紙、浮世絵、洒落本の中心で活躍することになる。

 
 世の中は 疝気に頭痛雨に風 花見の幕をはるぞすくなき       大田南畝

 
 いたづらに 過ぐる月日はおもしろし 花見てばかりくらされぬ世は  大田南畝



 いたづらに 過ぐる月日はおもほえで 花見てくらす 春ぞすくなき   藤原興風


 わが庵は都の辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治              大田南畝


わが庵は都のたつみしかぞ住む 世を宇治山と人はいふなり       喜撰法師




 大田南畝は1749年(寛延2年)生まれる。下級武士の出身で、子供の頃から漢詩を学ぶ。1767年(宝暦4年)19才の時「寝惚先生文集」を平賀源内の序文で出版する。古文辞派の漢詩を明るいタッチでパロディー化した。その後安政期には戯作をつくり天明期には黄表紙に没頭する。四方山人赤良の名で当世風の新しみをうりにした作品を書いた。
 1783年(天明3年)「通詩選笑知」で唐詩選のパロディー狂詩を、そして狂歌をつくり狂歌会の中心となる。狂歌の仲間たちと集まって、和歌の連句と同じように、次々と句をつくり遊んだ。そして、30代前半の若さで天明狂歌の寵児になる。
 これが江戸と上方を席巻した狂歌の最盛期であった。

ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ鶉なくなる深草の里    四方赤良(大田南畝)

夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里       藤原利成



 徳川時代中期、田沼意次の時代(1767年から1787年)の財政政策で経済は活発化し、豊かな庶民を生み出した。 江戸には各地方より人びとが集まり、俳諧師、剣術士、役人、浪人、坊主、船頭、駕籠かきなど が多くの庶民が生活を楽しんだ。当時両国橋のにぎわいの様子を平賀源内は書いた。「僧あれば俗あり、男あれば女あり、屋敷侍の田舎めける、町もの当世姿、長櫛短羽織 、若殿の供はびいどろの金魚をたずさへ、奥方の附びとは今織のきせる筒をさげ、  」
 またその頃、権威的な学問を、 政治や宗教と関係のない現実的学問に変えていった。
古文辞学は儒教を変え、国学はやまと心をうたい、蘭学は科学的方法を教え  、現世的文学の黄表紙や狂歌 、狂詩が流行した 。田沼意次の政策で士農工商の差なき人材の登用や自由な気風で商業も栄え、文芸も栄え絵も本も数多く出版され、宝暦天明期文化として多くの江戸町人文化が生まれた。



 黄表紙と呼ばれる絵付きの小説もこの時代に流行した。1775年(安永4年)恋川春町による作品「金々先生栄花夢」が人気を博した。邯鄲の夢と同じよう一夜のうちに豊かになり贅を尽くして遊蕩するさまを絵つきの物語で、田舎者の貧乏人金村屋金兵衛が江戸にでて豊かになり豪遊する姿を、着物は黒羽二重にビロードの帯といった金持ちの若者のいでたちを絵に描いた。

 しかし、天明期には飢饉や百姓一揆が頻発し、1787年(天明7年)田沼意次が失脚し翌年、松平定信が老中の筆頭になる。そして、松平定信による寛政の改革が行われた。農村の復興させ、贅沢をやめ、儒教とりわけ朱子学を重視し、文武両道質実剛健を政府が推進した。

 黄表紙で、幕府のこの政策を強烈に皮肉ったのが山東京伝。「孔子縞ま時藍染」1789年(寛政元年)で人々の物欲や金銭欲がなくなる様を描いた。
 例えば、おいはぎはぎ服を取らずに服を与え 、摺はお金を取らずに分け与える。そして人々は年貢を多くしてくださいと請願する。これは儒教精神が行き渡ったためである、と茶化した。幕府の期待される大衆像を逆手にとって、最後には人間はお金を欲しくはないのに、小判を降らせる天があると絵に描いた。
  しかし、幕府はこの反幕府の雑誌を取り締まり、1789年(寛政元年)恋川春町は「鸚鵡返文武二道」で松平定信に咎めを受け、山東京伝も罰金刑を受ける。出版の弾圧が始まり、太田南畝は狂歌の世界から身を引く。


 大田南畝は狂歌の世界から、松平定信の政権が用意した登用試験を受けて官吏になる。官吏として大阪や長崎で仕事を務め、紀行文やその土地の見聞記を多く書き残している。それらは古文辞派の事実を重視した記録になっていた。70才近くになり、再び狂詩、狂歌、狂文を書き始め75才の天寿を全うした。

 田沼意次の時代、経済は栄え、豊かな庶民が生まれ、文芸は花開いた。また蘭学、古文辞学、国学そして経世済民の考えなど多くの文化の活動も活発になった。一方賄賂は横行し、風紀は乱れた。そこに、天明の大飢饉が起こり餓死者も出て、農村は立て直しを迫られた。寛政の改革により、農村の復興が図られ、贅沢は禁止され、黄表紙などの風俗に抵触する本は取り締まられ、幕府の批判は禁止された。狂歌や黄表紙の饗宴ははかなく消えた。その後、教訓じみた、政治臭のない笑い、東海道中膝栗毛などの滑稽本は生き残った。
 


       白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき