2022/09/30

人気映画シリーズ(1950年代〜70年代)  裕次郎から寅次郎へ

  戦後、1950年代、日本的生活様式や好み、あるいは戦前的遺制を色濃く残していた映画が多くつくられた。その代表作は東映時代劇で、その中の8作品は当時人気の出た少女歌手美空ひばりが主演していた。1950年の後半には、1年に10億人以上の人たちが映画館に足を運んでいた。そのピークは1958年(昭和33年)で年に11億2745万に達し、日本人全員が1月に1回は映画館に行ったことになる。


 石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、1956年(昭和31年)にこの作品が映画化され、大学生の弟、石原裕次郎は俳優としてデビューした。つぎの石原慎太郎脚本の「狂った果実」は葉山のヨットハーバーを舞台にした兄弟の物語で、29歳の蔵原監督や若い助監督達によって制作された。静止した映像とセリフで、既成の伝統的映画を壊した新しい映画となった。そしてフランスヌーベルバーグのゴダール監督やトリュフォー監督にも影響を与えた。「この映画は明白な単純性と明晰さを持っている。全てのショット満ちて、かつ豊かなのだ。なぜならばそれらは等価であり、そのどれもがつぎのショットに奉仕しないからである。」とフランソワ トリュフォー監督は語っている。

 もはや戦後ではない、明るい時代の象徴として、裕次郎の存在そのものが、古い日本を感じさせない全く新しい価値を体現していたと言える。1958年(昭和33年)最も多くの観客を集めた10作品のうち「陽のあたる坂道」や「嵐を呼ぶ男」など4作は裕次郎の主演映画だった。

 東映の時代劇に対して、日活は新しい路線を確立していった。小林旭と浅丘ルリ子は渡り鳥シリーズや流れ者シリーズで人気を保ち、浜田光夫と吉永小百合は民主主義的青春映画路線を定着させ、次々とヒットさせた。個人主義的アクション映画の石原裕次郎はコンビの北原三枝と結婚、その後20代後半、1960年に入るとアクションにメロドラマの要素を加えたムードアクションと呼ばれる一連の映画に主演する。孤独な雰囲気を持った、過去にこだわる主人公とヒロインの浅丘ルリ子の映画「銀座の恋の物語」でこの路線は始まった。


 同じ年に「憎いあンちくしょう」がつくられる。主人公の裕次郎は「ヒューマニズムを理解できるドライバーを求む。中古車を九州まで運んでもらいたし。但し無報酬」これに感動し自分で運転して九州まで中古のジープを届ける、ヒロインの浅丘ルリ子はスポーツカー、ジャガーを運転してそのジープを追った。この作品はフランス映画のようなロードムービーでしゃれた会話とヨーロッパ的な場面で時代を先駆ける、流行の先端を行く作品だった。日活は古い時代の日本とは完全に決別し、アメリカ、フランス、イタリアの映画作品を手本にした、赤いハンカチ、二人の世界、夜霧よ今夜も有難うなどの作品を作る。夜霧よ今夜も有難うはカサブランカの日本版とも言える作品で裕次郎と浅丘ルリ子の二人が共演する映画は12本になる。

 この映画黄金時代は1960年代の後半になると、しだいにテレビに主役の座を奪われ、石原裕次郎を主演にしたテレビ番組「太陽にほえろ」が1972年(昭和47年)に始まった。


 第二次世界大戦後の1946年3月にチャーチルが「鉄のカーテン」の演説を行った。その後世界は自由主義の共産主義の陣営に分かれ、対立する。ソ連の共産主義のプロパガンダに対してアメリカは日本の民主主義の文化による支援を始めた「自由な人びとが、全体主義政権を押しつけようとする外圧に逆らって、自分たちの制度とその本来の姿を守る手助けをする」目的もあって、アメリカの良質な映画、良きアメリカンライフの作品が日本に輸入された。


1962年(昭和37年)に「007は殺しの番号」で007シリーズの第1作目が公開された。主役ジェームス ボンドが、カリブ海のジャマイカを舞台に、活躍する。第二作目は「007危機一発」ソ連情報部のタチアーナからの手紙でイスタンブールに向かうショーン コネリー主役のジェームス ボンドが世界的犯罪組織スペクターと戦う作品で、後に「007ロシアより愛をこめて」と題名が変更された。翌年にさらには「007ゴールドフィンガー」、そして、「007サンダーボール作戦」と次々日本でも上演され大ヒットした。この時のジョンバリーのサンドトラックは、当時の若者に大流行し、各地の高校の文化祭でその音楽は流された。1965年(昭和40年)の日本での洋画観客動員の一位は「007ゴールドフィンガー」よく1966年(昭和41年)は「007サンダーボール作戦」、1967年(昭和42年)は「007は二度死ぬ」で3年連続で日本人の最も多く見た作品となった。


 戦後生まれの若者世代が次第に豊かになり、これらの世界を違和感なく受け入れ、むしろジェームスボンドの乗る車アストロマーチンDB5、お酒のマティーニやブランド製の食べ物へのこだわりだわりはむしろ憧れの上流社会の生活の典型として受け入れられ、それを取り入れようとした。 

 作家イワンフレミングは陸軍の士官学校を卒業後ロイター通信に勤務し、その後第二次大戦中は諜報部に勤務した。生まれつきの上流階級の出身で、戦後はケムスレイ新聞グループに勤務し、年に2ヶ月寒いロンドンを脱出して、美しい海のジャマイカの別荘でスキューバーダイビング生活中に007シリーズを書き、出版した。ジェムス ボンドの生活はイワンフレミングの生活そのもので、華やかな西欧世界の憧れをまとった初期5作品の主役は、ショーンコネリーが演じている。


 この米ソ対立時代のスパイブームはテレビドラマにも広がり「0011ナポレオン ソロ」は1964年(昭和39年)から、「スパイ大作戦」は1966年(昭和41年)から放映が始まり、トムクルーズ主演のリメイク版「ミッション インポシブル」を作り出すことになる。これらの短いカットを重ねる回転の早い画像や物語の展開、広大な自然を背景にした、車やボートやヘリコプターを使ったアクション場面、そして時代背景としての米ソの冷戦を反映し、お茶の間でも多くの視聴者を獲得した。


 1967年(昭和42年)中根千枝著作の「タテ社会の人間関係」が発売された。日本社会の人間関係は、個人主義契約精神の根づいた欧米とは大きな相違をみせている。日本独特の人間関係を国外と比較し、内と外の意識、先輩後輩といった日本独自の社会システムを分析した。


「男はつらいよ」シリーズの第1作が1969年(昭和44年)に始まった。遠い世界のおとぎの国の夢もの語りではない、等身大の世界の人情話。近所の人や家族との人間関係、時には重荷になるような思いやりの世界をゆっくりした画面の展開と寅さんの語りと、日本の四季の風景を織り交ぜて展開する。そこでは、人々は自己主張はしなくても、個人主義を主張しなくても安心できる古くからく下町庶民の世界が展開する。


 第25作は浅丘ルリ子と共演する、「寅次郎ハイビスカスの花」が上演された。沖縄の美しい海、青い空の下に東京から寅次郎は空路、病気のリリーを見舞いに飛んでいく。夢のような生活、そしておいちゃん、おばさん、さくらの待つ下町のお店の東京葛飾柴又に帰る。そこは、かき氷、蝉の声のする日本の夏だった。

 古い日本的映画はすたれ、無国籍の架空の北の大地や港町の物語に変わって、日本社会の人間関係、懐かしい日本の風景、下町を舞台にした新しいタイプの日本的映画が生まれた。


 歌の世界でも1960年代のイギリスのビートルズやアメリカのジャズ、プレスリーやカントリーソング フォークソングから1970年代は、日本の若者たちのオリジナルなフォークミュージックが創られ、今までの歌謡曲世界を変えていった。




  浴衣のきみはススキのかんざし

  熱燗とっくりの首つまんで

  もう一杯いかがなんて

  みょうに色っぽいね             旅の宿     吉田拓郎


2022/08/16

寺山修司 時には母のない子のように II

 時には母のない子のように だまって海をみつめていたい

時には母のない子のように ひとりで旅に出たい 

だけど心はすぐかわる 母のない子になったならだれにも 愛を話せない


 寺山修司は1935年(昭和10年)生まれ。父親寺山八郎は4才のとき、セレベス島で戦病死してその後、母親せつと、父のない子の生活が始まる。


 わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びき番人が棲む


 わが鼻を照らす高さに兵たりし父の流灯かかげてゆけり


 父親になれざれしかな遠沖を泳ぐ老犬しばらく見つむ


 1954年(昭和29年)「チエホフ祭」1957年(昭和32年)第一作品集「われに5月を」を発表、1958年(昭和33年)第一歌集「空には本」を刊行した。


 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 

 少年時代から、言葉の力を信じ、言葉の生み出す力を信じる、それは終生変わることはなかった。感情のさらに奥にある情念、故郷や父の不在や母の存在、血縁の修羅を言葉とした。「短歌31の言葉の牢獄に、肉声のしたたりを封じ込めた。」と語るその心の奥底の不定形の情念は、日本的アニミズム、因習、血縁の世界であった。しかし、心の奥を言葉にした初期の頃の短歌や、日本の従来の短歌の特徴とした、私的な自己告白の歌は否定し、ロマンとしての短歌、歌われるものとしての短歌をめざした。


 すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を越えて来し郵便夫


 みずうみを見てきしならん猟銃をしずかに置けばわが胸を向き


 林檎の木ゆさぶりやまずわが内の暗殺の血を冷やさんために


 1962年(昭和37年)「血と麦」を刊行した。「私の体験があって、なお私を超えるもの個人体験を超える一つの力が望ましい。心、鬼そんなものを自分の血のなかに、行動のバネのようなものとして蓄積しておきたい、と思っている。」

 それゆえに政治的な発言も政治的社会的な文脈から離れ、言葉とその情感、心情に、共鳴する形で評価した。そして現状の破壊者としての、ヒットラーを論じた。「ネロの一生はどこかヒットラーの一生を思わせる。彼らはオペラハウスでやることを国家の歴史の上で演ってしまったという「場違い」をしただけのことだからである。」我々に興味があるのは思想でなく思想をもった人間である。

 詩人もたとえば本気でデモの効果を信じ、テロを信じ、世直しのための実践活動家になってはいけないのである。その後も「革命は呪術化し、運動は祭儀化し、幻想の世界を抱え込む。」と赤軍派を擁護している。 寺山修司はこのカルチャーに対するカウンターカルチャーとして反合理主義、反歴史主義の新しい世界を言葉と映像の世界で生み出そうとした。



 新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥


 かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭


 1965年(昭和42年)「田園に死す」を出版。その表題は恐山、犬神、子守唄、山姥、そしてこの歌集に新たに文を添えて出版した。短歌のかたわら、1960年代にはドラマを書き、演劇の脚本も手がける。やがて短歌の世界から、演劇実験室天井桟敷に活動を移す。



 1967年(昭和44年)「青森県のせむし男」を皮切りに新しい演劇は開始され、第二回の公演は「大山デブコの犯罪」だった。天井桟敷は「毛皮のマリー」、「青ひげなど」親と子の古くからの因習を見せ物的構成とアバンギャルドな衣装、新しい視覚の表現によって演劇にした。


 1968年(昭和45年)アメリカの前衛劇の事情視察のための渡米した。1960年代後半、時代は世界的に、カウンターカルチャー、若者たちの反抗の文化、ヒッピーやパンクがアメリカから起こり文化運動として世界に広がっていった。ヨーロッパでもパリのカルチェラタンや日本でも若者の反乱が起こっていた。体制に対する反逆、家や家族制度、学校教育あるいは理性的秩序、愛情に叛逆の衝動を広げていった。

 同じ年、寺山修司はニューヨークのブロードウェーのミュージカル「ヘアー」のヒッピー文化と共鳴する。その年「書を捨てよ、町に出よう」の舞台で反逆するハイティーンを登場させ、「時代はサーカスの象に乗って」でその時代のアメリカを描いた。


 1970年代からは市街劇という新しい試みで、舞台を街中に移しての演劇を試みる。そして初期の実験演劇は情念の劇、怨念の劇に退化したとして、俳優中心の人間同士のドラマから、人間とものとの対立、虚構と現実の入り組んだ迷宮の中に新しい世界を作る演劇を目指した。

 70年後半には「盲人書簡」「疫病流行期」「阿呆船」など多くの海外公演を行い、呪術的、祭儀的、麻酔的陶酔をもたらす劇として迎えられた。

 

 「奴婢訓」奴婢は奴隷で、その奴隷が主人に変わる、権力の不在「レミング」で壁を壊す男の物語で壁を壊した後の偶然と無秩序の世界を描き、「百年の孤独」で生と死と過去と未来の反転する実験的演劇作品を作り最後の寺山作品となった。


 日本のカウンターカルチャーを世界に発信した寺山修司は、既成の文化に対して、反文化を、権力に対して反権力を、演劇を通して実現しようとした。多くの思想、作品をコラージュ的に取り入れ舞台音楽と映像を進化させていった。


 その世界観は、現実は一つではなく、多重構造である、自分自身でさえ自分の分身を規定しないと理解できない。母と子の物語と自己の中心の不在、自己を意味づけるものの不在をテーマの演劇を様々に、装いを変えて、繰り返し、繰り返し作品とした。その演劇では、人間と自然との関わりあるいは宗教や道徳は不在のまま、私とは誰かを問い続け、意識する自分が、意識下、無意識の自分の発する言葉、思想などさまざまな断片のコレクションを言語化し視覚化し表現した。


2022/07/31

トムクルーズのトップガン  若さと新宗教



 トップガンが今年再び世界中で上演され、アメリカで話題の映画となっている。トップガンはトムクルーズがハリウッドのスターになる最初の出世作で、1986年に上演された。それから36年、永遠の若さを保つトムクルーズが再び戦闘機の天才パイロット、マーベリック教官として帰ってきた。トムクルーズはミッション インポシブルシリーズやアカデミー賞候補作品だけでなく、バニラ スカイ、宇宙戦争、オプリピオン、マイノリティー リポートなど多くのSF作品で主演し、今でも世界中で放映され人気を保っている。

 

 トムクルーズ60才、老化することを知らないハリウッドスター。ベビーブームから彼らの世代にかけて世界は時間とともに良くなり、死や老化さえも克服され、より良く、より健康に年をとることができるという未来を思い描いている世代である。彼ら世代は、もしかしたら永遠の若さを保つことが可能かもしれないという希望から、老化のメカニズムを解明し、永遠の若さを手に入れる研究を進めている。

  その研究の結果明らかになったことは、「ホッキョククジラは哺乳類の中で最も寿命が長く、人間の平均寿命の平均3倍の寿命で、これは生物の進化の途中で遺伝子の変化によって種の寿命が延びたためである。」また、マウスの平均寿命の10倍の30年生きるネズミも見つかっている。 今年の6月には、「カメでも加齢で死亡リスクは上がるようだが、極めて遅く、事実上老化はない。」という科学論文がデンマーク大学から発表された。カメは成熟しても成長が止まらない。それは細胞の修復機能が維持され、老化しないのではないかと想像される。


 現在人間を作っている3万3000個の遺伝子の内3万2340個は何の役割をしているのかがわかっていない。このゲノム情報と表現型の情報を組み合わせて統合ゲノムを作ると、遺伝子と実際の人の形や病気の可能性まで明らかになる。健康、老化、病気は遺伝子から解明される。

 2015年に人間のDNAの一部を解析して、実際の顔を正確に再現できるようになった。この研究チームは次に目指したのは人の健康寿命を伸ばす研究になった。遺伝子の解析で、この遺伝子の命に影響を与える病気が現れる前にこれを取り除くことができれば人はいくらでも健康に年を重ねられる。さらに、昨年2021年日本の研究で老いたマウスから肉体の衰えにつながる老化細胞を取り除く実験に成功したと報じている。

 

 不老長寿の夢の研究だけでなく、身体機能の回復の研究も進化している。2014年のSF映画オールユーニード イズ キルではトムクルーズがロボットの外骨格を使ったジャケットで戦場に現れる。これが現在コンピューター化した外骨格を人の下半身にストラップで装着し、脊髄の損傷患者などが、立ったり歩いたりするときの支援に使われている。さらに脳マシーンインターフェイスと言って、脳内に小さいコンピューターチップを埋め込んで、脳の機能を拡張する研究が進んでいる。


 一方で、人の脳の活動、心の働きは複雑で、なかなか機械で制御することは難しいのが現実で、 トムクルーズはディスクレシア(識字障害)に悩まされ、時々自分が何者かわからなくなることがあったことや、アルファベットのbとdの文字が判別しにくく、台本をアシスタントに読んでもらいセリフを覚えたことを語っている。 その心の違和感や惑いを感じていたときサイエントロジー教会に出会い、今でも深く関わっている。 


 サイエントロジー教会は、1954年にロン ハバートによって設立された新興宗教で、人生をより良くしてゆくための実践的方法が描かれ、自分の成長を無意識に妨げている、過去のトラウマなどの原因を取り除いて、自分本来のあるべき姿を見出し、人生を成功に導く方法を示す実践的宗教哲学。世界で900万人以上の信者を抱え、各国に音楽学校、美術学校、演劇学校やコンピューターの会社や不動産会社を名前を変えて、活動を展開し信者を獲得している。営利団体なのか、カルトなのか、宗教団体か、国によって評価が分かれている。アメリカ、イタリア、ニュージーランドでは宗教として認められ、フランス、ドイツ、イギリスでは認められていない。


 アメリカでは他にも何百もの新宗教運動の団体があり、1970年の後半からは、ヒッピー運動のカンターカルチャーと霊的(スピリチュアル)な人と地球の癒しを求める運動が起こり、全米から世界と広がっていった。この精神世界、スピリチュアルなものは自己啓発や自己解放、心理的技法を用いた自己コントロールや調和の追求に向かう。これは新たなスピリチュアル運動(New Spirituality Movement)と呼ばれここから新宗教運動も起こっている。


  人の心は複雑で、人の人生には常に困難が待ち受ける。自分を支えるものを失ったり、自分が何なのかがわからなくなる体験は誰もが経験し、人類は誕生以来それらの困難に遭遇してきた。そして、孤独感から温かい人と人の繋がりを求めたり、不安定なこの世を理解した指導者を崇拝したり、自分の存在意義が見出せたとき、心に充足感を覚える。まさに、人はパンのみで生きているのではなく、呪術や宗教を生み出し、そこから派生する倫理や道徳のもとで社会生活を送ってきた。既成宗教が力を失い、その共同体の世界より、それに拘束されない自由な世界を生きる人が多くなると、既成の宗教に代わる、新興宗教が力を持ち始めた。その中に宗教的カルトも生まれてきた。

 宗教の難しいのは既成の宗教であるキリスト教も、歴史をさかのぼれば、原始キリスト教は教義上の争いから、中世に入ると正統派と異端派が生まれ、異端狩りや分派闘争を繰り返し、カルト教団も勢力を伸ばした。宗教グループはそれぞれの社会的政治的背景を持ち時の権力の対立者として現れたり、協力したり、自らが権力を握ったりした。

 そしてカソリック、プロテスタント、ギリシャ正教など、現在に至ってもキリスト教内でも宗派間の対立は残り、イスラム教など他宗教との対立はさらに激しい。そして時代とともに宗教は衰退していくことなく、中東やアフリカではイスラム教の政権が誕生し、ラテンアメリカではカリスマ派キリスト教が盛んになり、エホバの証人やモルモン教も世界中に広がっている。先進国でも新興宗教が社会問題を引き起こす事件が増えている。


 そもそも人間は言葉を連ねて、文学をつくり、感情を連ねて、宗教をつくるように進化してきた。宗教の定義も様々で、「ある見えざる秩序が存在しており、それに調和的に自らを適応させるところに最高の善があるとすると信念」と20世紀初めに定義された。そして、20世紀末には宗教は終焉するとも考えられてきた。しかし21世紀になっても、宗教は人間の本性であり、人間社会を構成するものであり、人間が社会を創る限り、形は変化しても宗教は消え去ることはない事がわかった。  近未来SF映画の世界のように、AIなどのコンピューター技術が進歩し、バイオテクノロジーが脳内の操作を可能にしても、それに見合った斬新な宗教が生まれてくる可能性がある。



 



2022/06/30

医療をどうするか   日本社会の変化と厚生省




 爾俸爾禄

 民膏民脂

 下民易虐

 上天難欺

 

 戦時体制下の1938年(昭和13年)厚生省は内務省から独立した。内務省の健兵建民政策の一部を担っていた保健所は独立後、主に結核の対策と伝染病対策に取り組んだ。

 戦後はGHQのサムス准将による医療改革で、衛生警察から、民主化された保健所が公衆衛生を担う体制に変わり、厚生省に医師の技官を数多く登用し、科学的医療政策を進め、また海外からの引揚者からの伝染病を解決した。こうして戦後、厚生省は国民の健康を守る省として再出発し、省内に「爾の俸給は人々の働きによる、この人々を虐げてはならない。」との戒めが掲げられた。


 戦後初期、日本経済は破綻して、食料もなく、大人も子供もその日の食事も手に入らない状態で、とりわけ子供達の栄養状態は悪化していた。GHQはこの解決のために、学校給食に脱脂粉乳とパンを輸入し栄養改善を図った。1950年代に少しずつ日本経済は回復し、米は食べられなくても、麦飯は手に入るようになり、栄養が改善するとともに感染症は減ってきた。 1960年代に日本は最貧国から脱して、所得倍増計画のもと日本の豊かさは世界の中進国まで到達した。その象徴とも言える「国民皆保険制度国民皆年金制度」ができるのが1961年(昭和36年)、病気の治療が保険によって受けられるようになった。


 1970年代は日本列島改造、高度経済成長の時代で、1973年(昭和48年)には老人医療費は無料となり、各県に1大学の医学部ができた。日本は経済的に上り坂になり、GDPは世界でアメリカの次に多くなり、やがて世界一を目指すまでになった。この好調な経済に支えられ、全国の医療体制は次第に整備されていった。車が普及するとともに交通事故も激増し、救急体制を中心とした医療の充実がはかられた。公衆衛生と医学の進歩により14歳以下の死亡者は激減し1980年には数%までに減少し、子供の時死亡することは稀になってきた。


 若者人口増加の戦後40年間は経済成長の時代で、所得は倍増し、列島は改造され交通網は充実し、東京などの大都市は世界の都市と肩を並べるようになった。アメリカ医学が取り入れられ、病院は整備されてきた。しかしその後の40年人口構成は変化し、若者人口は減り高齢者が増え、厚生行政のあり方、戦略は変こうを迫られる。

 

 医療を提供する病院や診療所の体制をどうするかが再び問題となってきたころ、 家庭医に関する懇談会報告書1986年(昭和61年)が厚生省から出された。昭和50年代からアメリカでは家庭医と言う専門医を養成しはじめた。それを学び日本でもこの家庭医を実現させようとした。そしてイギリスでの登録制度の家庭医の存在や、医療国営の考えもその背景にはあった、それに反対して日本医師会は家庭医の言葉を使わないように、かかりつけ医という言葉を提案した。結局、家庭医の制度は取り入れられず代わりに、2000年(平成12年)に、医学部卒業後の2年間は家庭医の仕事が十分できるように、各科をローテートしてから専門医となるべく入局する研修制度が法案化され、2004年(平成16年)に実行された。

 

  

 戦後の40年そして急性期に対応する病院の数は充足した。1990年(平成2年)以降は高齢化が急速に進み、75歳以下の死亡者は減り、平均寿命は急速に伸びてきた。急性の病気や感染症は次第に減少し、慢性の病気や老化に伴う身体的不調の人々が増えてきた。その高齢者は医療を受けた後のリハビリや家庭内の介護が必要となって、社会的システムとして世話を引き受ける、個人や家族が抱えこむのではなく、社会全体で老人の世話をする必要性に迫られた。その結果、医療のみではなく介護も保険でまかなう介護法案が法律化され1996年(平成8年)介護保険法が成立した。


 現在、日本国民の平均年齢は47.8歳でインドの28.7歳、アメリカ38.5歳、中国38.4歳の比べ飛び抜けて高齢である、今後10年後20年後はこれがさらに高くなり、所によっては80歳以上の人口が半分を占める地域が出現する。そして現在 病院での医療が中心であったものが高齢、多死社会になって、地域のネットワークで高齢者を支える必要が出てきた。地域ごとに病院と診療所や介護の施設が役割を分担し、家に住みながら医療介護も受けられることが必要になってきた。病院は高度な急性の病気に対応する病院は減っても、その後のリハビリや療養を担う病院、介護を主体とした病院は増え、さらには在宅で対応する介護と医療を地域で備える必要が出てきた。



 感染症は克服されたかに見えた20世紀末、再び新たな感染症に世界が振り回されることになった。国家としての感染症対策が必要で、新型インフルエンザやSARS、MARSや、今回の新型コロナの世界的流行は、感染症対策の司令塔や保健所の役割が改めて問い直される。健康危機管理システムを整えて、突然起こる感染症に対応する体制が必要となった。


 保健所は1937年(昭和12年)内務省が国を支える兵士や国民の健康が大切であるとして健兵建民政策のために各都道府県につくり、戦後これが解体され保健所は厚生省の傘下に入り、公衆衛生を担うことになった。ここが新型コロナ感染症対策に対応した。

 まずコロナ感染症を感染症の2類にして、結核感染症課が担当した。保健所が感染者を検査し、周りの接触者を特定し、隔離し封じ込める方法で対応した。PCR検査は保健所が地方の衛生研究所に検査を依頼して感染経路も追った。さらに詳しい変異株の検査は国立感染症研究所に一本化した。 


 この時政府はPCR検査の拡充や対応する施設の拡大を図るもうまくいかず、また市と町の管轄する保健所と、県と国が別々に対応し、政府の発表と感染症の対策の現場がチグハグになっていた。治療においても、病院はバラバラで大学病院は文部省の管轄下で、厚労省の管轄下病院の多くが私立病院で、公的病院も管理の主体は様々で一本化されていないため、病院間の連携はとれず、重症患者の受け入れは一部に偏った。公衆衛生を担う保健所と治療する病院は別のシステムで動いていた。

 このバラバラな統治を一元的にするために、今後は公衆衛生や建康危機の管理をアメリカのCDC(Center of Disease Control and Prevention)参考に改変が図られようとしている。






 1983年(昭和58年)厚生省の吉村仁保険局長が「医療費亡国論」発表し、高齢化が進み、このまま医療費が増え続けば国の財政はそれに耐えられなくなると公表したが、当時日本は豊かであり、その後バブル経済の時代になり、あまり切実感は広がらなかった。

 2000年になると、この心配が現実のものとなり、国の財政赤字が増え、社会保障費も制限する必要に迫られ、医療費の自己負担額は増え、社会保障費も抑制され始めた。

 その後も高齢化は進み、経済の成長も止まって、国の借金はその後20年で2倍に膨れ上がった。限られた国富を使って高齢者が増えた社会をどのように安寧に保つかが医療をどうするかの大もとになっている。今のまま支出を国債発行(借金)でまかなうことができないとなると、支出を減らすか、稼ぎ手を増やすか税を増やのか、あるいは他の方法か。


 人生100年時代は80才まで働く時代かもしれません。


 「太平の 夢から覚めて 蔵見れば なおも膨らむ 借金の山」


2022/05/29

日本とロシアの戦争と平和

日露戦争


 「画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。

 そのほかはみんな兵隊、何千という兵隊だ。全景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がって、うなだれている。わずかに左隅の前景の数人の兵士が、ルネッサンス画中の人のように、こちらへ半ば暗い顔を向けている。そして左奥には、野の果てまで巨大な半円をえがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がってつづいている。」

      

                               三島由紀夫 豊饒の海 


 経済的つながりが深まれば平和が訪れるというリベラルな理想主義的考えは、国と国の関係は力と力のぶつかり合いで決まるという現実主義に取って代わった。全ての権力はより大きな帝国に集中する方向に向かっており、進歩に遅れた国は二流の属国の地位に滑り落ちる。19世紀のヨーロッパ大国間の争いは、1860年代には世界の秩序を支配する原理となり、その後世界はこの強国の合従連衡による覇権争いから、戦争を繰り返す時代に突入する。


 日本は1853年、徳川幕藩政治による鎖国政策がアメリカのペリー艦隊が江戸湾に入港し、開国に向かい、徳川政権は崩壊し、明治時代の近代化が始まる。

 一方ロシアは1853年にロマノフ王朝の時代にトルコ支配下のドナウ公国に侵攻しクリミア戦争を起こし、英仏軍に敗北し、帝国の近代化を迫られ、欧州から、アジアにその勢力を伸ばし始める。このアジアでの領土拡張政策は、日本の大陸侵攻政策と衝突し、日露戦争となった。日本海と中国の東北区で激戦となり日本はこの戦いで8万4000人の死者と14万3000人の戦傷者が出た。


 三島由紀夫の豊饒の海、第一部「春の雪」は冒頭に日露戦争の戦没者のセピア色の写真、得利寺付近の戦死者の弔祭の日露戦争戦没写真集の場面から始まる。

 明治政府は1900年清朝末期の義和団の乱に対し、多くの軍を送り、ロシアもまた西欧の11カ国連合軍に加わり、乱を鎮圧した。ロシア軍はその後も中国の満州地域にとどまった。そして満州全体を自らの勢力圏とし、朝鮮北部を緩衝地帯とし、南部を一定の制限のもとに日本の領域とすることを求めた。日本はこれを拒否し、1904年開戦に踏み切った。日本海軍はロシアのバルチック艦隊を打ち破り海戦に勝利し、陸軍も旅順の要塞を突破し、奉天で勝利した。アメリカの仲介で停戦が成立し、ポーツマス条約が締結された。日本は遼東半島の先端の租借権を得、ロシアから樺太の南半分と東清鉄道の南満州支線を日本に割譲し、日本とロシアは満州から両国が撤兵し、清に返還することになった。


 1911年に清朝は崩壊し、1914年から18年までヨーロッパの5つの大国は覇権を争い第一次世界大戦に衝突した。その結果、多くの帝政国家は消滅した。ロシアのロマノフ王朝も1917年の革命で、社会主義政権に変わり、スターリンが政権の座につき、1928年から5カ年計画で農業の集団化と急速な工業化を進めた。

 ヨーロッパの大国が第一次世界大戦で疲弊し、アジアでの影響力がなくなり権力の空白が生まれた。戦場とならなかった日本はその空白を埋める行動を起こしていった。1910年代に中国への対華21ヶ条の要求や、ソ連に対するシベリア出兵などを実行した。

 第一次大戦後も戦場とならなかったアメリカ、日本は国力を蓄え、戦火を交えたドイツ帝国はオーストリアハンガリー帝国とともに解体し、フランスは国の立て直しを迫られ、イギリスは覇権国の地位から滑り落ちた。ロマノフ王朝の解体したロシアは帝制からソビエト連邦となり社会主義国として国を立て直した。 ベルサイユ条約が結ばれ、国際連盟が誕生し、1928年にはパリ不戦条約が結ばれた。その後、生き残った大国は再び武力による国際秩序の変更をめぐって全面戦争に向かう。


 ノモンハン事件


1931年日本の関東軍が満州事変を起こし、満州全土を軍事支配下に置いて、翌年満州国を成立せせた。次第に満州における日本のプレゼンスはソ連政府によって脅威となり、極東の軍備強化は重要課題となった。一方、極東におけるソ連軍の強化は日本にとって脅威であり、満州における日本の軍事力強化は正当化された。ソ連は極東に57万人を動員し、2200台の戦車と2500機の軍用機を送り、一方満州の日本軍は27万人の兵隊を配備し、200台の戦車と560機の軍用機を備えた。


 モンゴルと満州国の国境線をめぐって、対立していた両軍は1939年5月に本格的軍事衝突に至る。装甲車両はソ連が6倍であったが、5月の限られた軍事衝突から次第に戦争は拡大し、6月には120機の日本の空有軍の奇襲作戦でソ連の空軍に大打撃与える、その後は戦車や装甲車、対戦車砲と歩兵の戦闘で、火炎瓶や砲撃で多くの戦車を破壊されたものの、ソ連は物量と火力が大幅に増強させ、空軍と歩兵、戦車、自動機械部隊を組み合わせて、起伏の少ない広大な平原での戦争を進めていった。


 ノモンハンでの戦闘は局地戦であったにも関わらずその後の世界を動かすことになる。スターリンは1939年8月ノモンハン事件と時を同じくして、西のドイツ東の日本との2正面作戦を避けるためと独ソ不可侵条約を締結する。こうして西側でのドイツの脅威をなくし、すぐに日本軍に対して戦っているジューコフ率いるソ連軍にヨーロッパから大部隊の援軍を送った。そして関東軍は軍事的に敗北し9月25日に停戦に合意した。両軍とも2万人近く死者が出た。この独ソ不可侵条約では、ポーランドの分割やバルト3国フィンランドの勢力圏に関する密約があり、ドイツは9月にポーランドに侵攻し第二次大戦は始まった。ノモンハン事件の解決の後にソ連も極東の軍をヨーロッパに戻し、ポーランドに侵攻した。

 日本は、対中戦争にめどをつけ、対ソ戦備に転向し、北辺の安定力を充実して世界の変動に備えるとした戦略と外交を変更し、ソ連と停戦後、1941年に日ソ中立条約を結び、南方へ戦力を向け、イギリス、アメリカと対立する。

 

 第二次大戦終戦の直前にソ連は日ソ中立条約を破棄し日本に侵攻。日本は敗戦し大戦は終わった。


 その後大国同士が直接武力を使って領土に侵犯し戦争になることは過去のものとなり、経済的繁栄とグローバル化が進み、マクドナルドのある国同士の戦争はもはや起こらないと言われた。今年2月に始まったウクライナ平原での戦車、歩兵、対戦車砲や榴弾砲を使った戦争はエッシャーの絵のように世界は、反転し、誰も想像しなかった80年前と同じ世界が現実であることを思い知らされた。



2022/04/29

武士の子正岡子規と畏友夏目漱石

  くれないの 二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨のふる

                                   正岡子規



 正岡子規は江戸幕府最後の年1867年(慶応3年)松山藩士の長男として生まれる。17才の時叔父の加藤拓川を頼って上京し、第一高等学校に入学、1889年(明治22年)に詩文集「七草集」を書き上げる。漢文、漢詩、和歌、俳句、地誌、小説の七巻からなるもので、当時友人に読ませ、その批評を夏目漱石が好意的に書き、これが二人の出会いのきっかけとなる。


 帝大を中退、1892年(明治25年)新聞日本に入社。古来の俳句を技法や用語で分類し、洋画の技法を俳句にも取り入れ、自分で観察した風景を句とすることによって、月並み俳句から写生の俳句への変革を始めた。

 住まいを日本新聞社社主陸羯南の家の隣に定め、文明開化の象徴である情報の発信の中心メディア、新聞「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句革新運動を広げていった。1889年(明治22年)に創刊された新聞「日本」は、政府の欧化主義に反対し、日本の国民精神を回復発揚することを目的としていた、保守的革新主義のメディアであった。文芸では和歌の入った紀行文、そして子規は俳句でその一翼を担った。


 当時の日本は西欧の列強にならって、強国をめざして、産業を興し、教育の充実をはかった。軍隊も英国の海軍から専門家を招き助言を求め、近代的な艦隊をつくり、プロイセンの参謀将校が陸軍の近代化を助けた。明治政府になった日本は戦略的な安全保障を求めて、朝鮮半島に進出して、権益をめぐって清国と争いが起こり、1894年(明治27年)日清戦争となる。陸でも海でも数は劣っていたものの、訓練と装備に優っていた日本軍が勝利し、大陸まで突き進む。そして休戦協定の結ばれた11日後の1895年(明治28年)子規にも従軍記者として中国大陸の遼東半島に渡る許可が出る。広島から出発する前に松山によって「父の墓」という新体詩を残している。


父の御墓に詣でんと 

末広町に来て見れば

鉄軌寺内をよこぎりて

墓場に近く汽車走る。

石塔倒れ花委む

露の小道の奥深く

小笹まじりの草の中に

荒れて御墓ぞ立ちたまふ。

見れば囲ひの垣破れて

一歩の外は畠なり。

石鉄颪来るなへに

粟穂御墓に触れんとす。

胸つぶれつつ見るからに、

あわてて草をむしり取る

わが手の上に頬の上に

飢えたる藪蚊群れて刺す。


 父の墓を詣で、最初は武人として、従軍記者として気負って、広島から船に乗り込む。

     

 いくさかな我もいでたつ花に剣


 野に山に進むや月の三万騎


 蛙はや日本の歌を詠めにけり


 大連から金州、旅順と移動ししだいに、移動する中で、大陸の自然風景や人々の生活、そして戦争を漢詩や新体詩として写生して表現していくようになる。


 わがすめらぎの春四月、

 金州城に来て見れば、

 戦のあとの家荒れて、

 杏の花ぞさかりなる。


 


 1895年(明治28年)春28才の夏目漱石は松山中学の英語教師として着任し、愚陀仏庵と名ずけた家に下宿した。大陸から戻り、神戸で入院していた正岡子規も病気静養のため松山に帰って、愚陀仏庵の一階に居候する。正岡子規の周りにはその地の俳句の愛好家が集まり、句会が開かれ、地方新聞に掲載された。この50日の間に、2階に住んでいた漱石も、その仲間に加わり多くの俳句を作っている。


 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺             夏目漱石



 松山での病気静養を終えて、東京に戻った子規は俳句の革新で、与謝蕪村を発見し、高い評価をした。俳句の革新を次の短歌でも行い、1898年(明治31年)「歌よみに与ふる書」の連載を「日本」で開始した。そこで古今和歌集の紀貫之を否定し、万葉集を高く評価し、定型化し月並みの和歌を再生し、現実離れした空想的なものから、写実短歌と変えていった。


 当時、子規より6才若い、与謝野鉄幹もまた新詩社をつくり和歌の革新を始めていた。今までの型にはまった和歌を自己表現の短歌に変え、心情を歌にして女学生ブームをつくり、「明星」誌上で与謝野晶子などの多くのスターを送り出した。「明星」は新しい装丁の雑誌で、その表紙は一条成美のフランス絵画を思わせる乙女を載せ、短歌などの文学と新進の洋画家美術を斬新なレイアウトで融合させ、華やかな新時代の象徴となる。


 1901年(明治34年)1月の日本の「墨汁一滴」誌上で「去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹子規と併記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾おもへらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。」批判した。


 正岡子規の気質は、大将的で、彼は自分が中心に立つことでなければ何事に対しても興味を見いだすことが出来なかった。漢詩や絵画のイメージを俳句として表現し、和歌も同じように変革し新しい短歌の世界を切り開き、敵対する相手と論戦を戦わせた。

 しかし、病気によって心身が疲労してくると、「さすがに人間を小さいと感じることが多くなり、極めて柔軟で少しも彼の意に逆らわない天然界の王者になることを望んだ。」そして印象派の絵画のように自然を陽光の下で観察し、筆で言葉にした。子規は病床にあっても生涯「日本」の社員として作品を連載し、1902年(明治34年)に「墨汁一滴」1903年(明治35年)には「病床六尺」を連載した。そのなかで「草花のひと枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密がだんだん分かって来るような気がする。」と語っている。その年の9月に「糸瓜」の句を最後に母と妹に看取られ35歳で夭折する。


 漱石は熊本の第5高等学校の講師として赴任し、離れ離れに暮らした。その後も子規は漱石に100通ほどの手紙を書き、冗談話や文学論などをやりとりしている。 漱石は1900年(明治33年)33才の時英国に留学する。その時も病床の正岡子規は多くの手紙をロンドンに書き送った。

1903年(明治36年)帰国し、亡き正岡子規のところを訪れ、「霜白く空重き日なりき。我西土より帰りて、始めて汝が墓門に入る。 爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花も捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。我は只汝の土臭き影をかぎて、汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ。」と書き残した。



 いちはつの 花咲きいでて我が目には 今年ばかりの春ゆかんとす



 若い日に正岡子規と出会った夏目漱石、2人は畏友として互の文学に影響を与え、日本文学を変革し、日本の文化を豊かにした。

2022/03/15

プーチン政権の源流


 勝利と敗北を自分で見分けるなどということは、すべきではない

                                パステルナーク




 1980年代アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相の主導した自由主義経済やグローバル経済がソビエト共産主義の指導経済を切り崩しつつあった。この行きづまった計画経済、古い体制を変えるために若い指導者ゴルバチョフが政権についた。情報公開(グラスノスチ)とペレストロイカ(立て直し)政策を進めた。そしてソ連の15共和国の権限を拡大する方針に反対した共産党保守派が1991年8月クーデターを起こした。 この時、ロシア共和国大統領のボリス エリチェンは装甲車によじ登りクーデターは違法だと大声をあげ、モスクワ市民はこれを支持し、新たな国を誕生させた。ソ連は崩壊し、資本主義を取り入れ、民主主義を取り入れた新生ロシアが誕生しエリチェンが大統領として指導者の座に着いた。


 ボリス エリチェンはウラルの重工業地帯スベルドロフスク州の共産党第一書記になり、ゴルバチョフ時代に党の中央委員会に登ようされ、やがてモスクワ市の第一書記になる。エリチェンは「ロシアで喧嘩に勝とうと思ったら、決して屈服してはいけない。どこまでも論をエスカレートさせることだ。」の信奉者でエリチェンにとって権力こそが愛着と情熱と奉仕の対象であった。

 そのエリッチェンが1991年秋に急進的経済政策を進める、若い改革派を抜擢した。その中心がガイダールでそれをチュバイスが実行した。革命的私有化プログラムのもとで民営化進めた。輸入は自由になり、個人の小売業も自由化した。モスクワにはドイツの高級車販売店ができ、高級ブランド店には憧れの品々が並べられた。

 グローバル資本主義の波がロシア国内にも及んだ。しかし政府の銀行口座や、輸出品の許可、天然資源など、ロシアという国家は国家資産が市場価値をを持ちことを正しく認識できなかった。そうしてソ連を支えた背骨の官僚組織はなくなり、一部の超富裕層と数千万の超貧困層を生み出した。


 頭が切れ、コネをたくさん持っている事業家が権力志向と闘争本能をむきだしにして、政府の無知につけこんでその利益の受益者になり、のちにオルガルヒと呼ばれる寡頭資本家が生まれる。 オルガルヒと呼ばれる人々。1964年生まれのミハイル フリードマンはウクライナ出身のユダヤ系でゴルバチョフ時代に起業し、エリチェン時代に石油輸出業に進出。1963年生まれのミハイル ホドルコフスキーはやはりユダヤ系の企業かで銀行業からやがてユーコスというシベリアの巨大石油企業を所有する。そして1961年生まれのロシア人ウラジミール ポターニンは銀行家となって税関のお金を管理し、やがてノリスク ニッケル社を手に入れた。ボリス ベレゾフスキーは1946年生まれ航空会社アエロ フロート航空を支配し、ロシアメディアORTテレビを獲得した。その後石油会社ジブネフチー社を手に入れた。


 ロシア政府は経済の民営化のため有数の国営の巨大企業をいくつも売却し私有とした。これは共産党時代の赤い支配人から会社を取り上げ、台頭しつつあったこれらの起業家に世紀の大安売りを行なったことになる。その中には、ロシアの天然ガスを独占する「ガス ブロム社」や二大石油会社「ループ オイル社」「スルグトネフチュガス社」などが含まれていた。 結局若手改革派による市場経済維持のためのインサイダー取り引きで、オルガルヒのやりたい放題によって堂々とこれらの国有資産は売り渡され、ロシアは彼らに強奪された。



 ソ連が解体し、ロシア共和国となり、1995年12月に議会選挙と1996年に大統領選挙が行われる。そこにはボリスエリチェン、共産党のジュガーノフ、そしてゴルバチョフも立候補して選挙戦が戦われた。 当時エリチェンの体調はすぐれず、彼を支持する改革派、新興財閥(オルガルヒ)と対立るするゴルジャコフなどと内輪もめし、一時は共産党のジュガーノフが優位に立っていた。

 結果はエリチェン53%、ジュガーノフ40%、ゴルバチョフは2%以下の支持であった。エリチェンはオルガルヒから莫大な選挙資金を手に入れ、メディアを支配し、活力のある改革派の大統領を演じ、次第に多くの支持を集めていった。エリチェンの対抗馬は、地方メディアから締め出されたり、国立機関での演説を急にキャンセルされたり、直前にホテルの予約が取り消されたりした。そしてエリチェンは大統領選挙で勝利した。


 ジュガーノフは共産党の信奉者に語りかけた。彼らはロシア市場経済移行における敗者、軍人、科学研究者、年金受給者であった。ソ連時代のエリートは同じ地位にとどまっていた。エリチェンの批判はソ連が偉大な国家で、ロシアが偉大な民族であるという感覚を剥奪してしまったと訴え中高年の支持者に共感された。しかし変革を求める若者にはその声は届かなかった。


 ゴルバチョフは民主主義を礼賛したが、専制を熱望する一般大衆の壁にぶち当たった。演説で人々に「共産党に権力を返上すべきだろうか」と問いかけると「そうだ返上すべきだ。あの頃の方が良かった。」「あんたは国を売った。ロシアは強力な統制が必要だ。」と人々は答えた。


 エリチェンの政権下1997年資本主義革命後、ようやく豊かな時代が訪れるかと人々は思った。しかしロシア国家は弱体化し、市民社会は堕落し、職業的、倫理的規範は消え、なんでも売買の対象となり、賄賂が横行した。

 1998年ロシア経済は崩壊した。そして首相がコロコロ変わり最後に、エリチェンはウラジミール プーチンを首相に指名し、年末の12月31日にみずからは辞任し、プーチンを大統領代行に据えた。顔のない魔術師と呼ばれた男が、翌年3月26日の選挙でやはりオルガルヒの資金と若手改革派の協力を得て大統領になった。


 プーチンは大統領になると、1999年にソ連時代の官僚「シロヴィキ」(内務省、軍、旧KGBなどの武力省庁の当局者)などの協力を得てオルガルヒを政治の舞台から追いやった。当時80億ドルの個人資産を持ち、クエート一国を上回る産油量の石油企業の所有者ボドルコフスキーを逮捕し投獄した。そして、ベレゾフスキーはロンドンに逃亡し、グシンスキーはニューヨークに逃亡した。ポターニンも事業を縮小し、政界から消えた。

 2004年までに、プーチン大統領は民主的市民社会の制度の多くを意図的にたたきつぶした。たとえば全国ネットのテレビ放送局は、全て国家の支配下に引き戻された。地方の公選知事は骨抜きにされ、政権に反対する事業家は国外追放されたり投獄されたりした。 そのかわりにソ連時代からの官僚とくに「シロヴィキ」が権力の中枢を握った。その数はゴルバチョフ時代の4.7%から58.3%になった。彼らは自分たちが国家の利益のために行動していると考えており、ロシアが再び恐れられる存在となることを狙いとしている。

 そして何よりも厄介なのは、彼らの心の中で強い国家という概念が恐怖感をかもしだすことと 結びついていることにあった。プーチン政権の周りにはかつての帝政の官吏でだったアパラチキもまた、装いを改め公僕として使え政権を支えている。


 ソ連崩壊の後あまりに急進的な資本主義化、資産の民営化が進められ、その過程でロシアの富は一部の人に奪われることを許し、エリチェン時代の社会の混乱からロシアに集団的秩序願望が生まれた。知性的で微温的なゴルバチョフと対照的なエリチェン大統領の急進改革の混乱から、さらに独裁的なストロングマンのプーチン氏がロシア国民によって大統領に選ばれた。



「さまざまな一党が玉座に近づき、戦利品の分配を始める。その後、彼らはその場を追われ、代わりに別の連中が入ってくる。寵臣は絶えず入れ替わる。これがロシアの伝統だ。」





 参考 第二のロシア革命の内幕 世紀の売却 クリスティア フリーランド 著