山は崩れて河を埋(うず)み、海は傾きて陸地(ろくじ)をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。渚漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は脚の立(たち)どをまどはす。
方丈記のこの文は、鴨長明31才の時起きた時の記憶をもとに書かれたもので、都の東部琵琶湖の西岸に1185年(元暦2年)7月9日に、マグニチュード7.4と推定される大地震が起きた。「京の都の洛中洛外の民家や神社お寺は、ことごとく倒壊し、その音は、雷のようで、立ち上る塵はあたかも煙のようであった。龍であれば、雲に乗って逃げることができるのだが、羽がないので空を飛ぶこともできない。この世で最も恐ろしいのは地震なり。その後に余震がしばらく続き、日に20回30回と震え、それが10日、20日とすぎて間遠になり、やがて1日に4、5回、1日に2、3回、やがて1日おき、2、3日に1度となり、3ヵ月後にようやく収まった。」
869年に貞観地震、887年に仁和地震が起こっている。これらは東日本大震災と同じ海溝型地震の可能性が強く、これらの後に起こった元暦の地震は、阪神大震災と同じ直下型地震と推定される。この元暦の地震のことを、4年前に死んだ平清盛が竜になって起こしたと「愚管抄」の中で、慈円も書き記している。
鴨長明は、和歌の達人天台宗座主慈円と同じ年、1155年、下鴨神社の摂社の正禰宜の次男として生まれる。その京の都では、長明の生まれた翌年1156年に、保元の乱が起き、その後も大きな天変地異に次々と見舞われた。方丈記には長明が記載した災厄として、大地震のほか「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」を世の不思議として取り上げている。
あるじはと問ふ人あらば女郎花やどのけしきを見よと答へよ
1177年、長明23歳の時、安元の大火で、都の3分の1が焼かれ、3年後の4月には、竜巻により再び甚大な被害を受け、同年の6月に清盛は福原遷都を強行する。この23歳の時父親が死亡、父のあとを継ぐことを望んでいたものが、その後ろ盾を失い、自称孤児となってしまう。そして、長明26歳の時、新都福原を見るために、摂津国、今の神戸を訪れた。上の歌は摂津旅行の門出に詠んだものである。
「治承四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。家はこぼたれて淀川に浮かび、地は目の前に畠となる。」「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲のおもひをなせり。」
神戸の福原は、「この地は狭く、条理をわるに足らず、北は山に沿って高く、南は海近くてくだれり。波の音つねにかまびすしく、しほ風ことにはげし。」そして空き地が多く、家がなかなか建たず、天皇や貴族は福原に移住し始めたものの、実際半年後には、そこを引き上げ京都に戻る。福原遷都は失敗に終わり、翌年には平清盛は亡くなる。
我はただこむ世の闇もさもあればあれ君だに同じ道に迷はば
その年、1181年、長明27歳の時、初めての歌集「鴨長明集」を百首詠んだ。それは、宮廷人ではない市井の人の心情を歌った和歌であった。その後はその時代の風潮に近い定家などの宮廷風の和歌を取り入れて、作風を技巧的な歌に変えていく。そうして、47才で後鳥羽院の和歌所の寄人に呼ばれ宮廷歌人の一人となる。後鳥羽上皇の勅撰和歌集である新古今集には10首の和歌が載せられた。
1204年、長明50才の時、下鴨神社の禰宜の職に欠員ができ、長明は長い間望んでいた職につけるはずであった。しかし今度も実現せず、出家を決意し、京都北部の大原に隠棲する。5年ほどのち大原から、京都の南、日野の山中に住まいを移し、和歌を詠み、琴や琵琶を弾き、文筆活動に専念した。
長明は、方丈記を書いた前の年1211年、将軍頼朝の御忌日鎌倉を訪れ、源実朝に会い、一首の和歌を詠み堂の柱に書き記した。
草も木も靡(なびき)し秋の霜消えて空しき苔を払ふ山風
草木もなびく頼朝の没後、世が虚しい空白となり、山嵐が空しく吹く情景は、実朝と会い和歌の、詩人どうしの会話の後、長明の残した一首であった。荒涼感漂う無常の歌であった。それは実朝の和歌の指南役になれなかったためか、あるいは鎌倉幕府への失望感か、何れにしても、長明の万感の思いが込められている。
翌年長明58才の時1212年「方丈記」を書く。新たな試みの新しい文体で、世間と自然を描いた。長明が20才から30才代に経験した災害で京の都が崩壊し、飢饉で亡くなる人々の様子をリアルな筆致で描き出した。自らの住まいも次第に縮小し、方丈庵になる様子は、「旅人の一夜の宿をつくり、老たる蚕の繭を営むがごとし。これを中ごろのすみかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齢(よわい)は歳々に高く、すみかは折々に狭し。その家のありさま、よの常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは七尺がうちなり。」
茶室のようなその住まいに、阿弥陀仏と普賢菩薩の絵を掛け、机には法華経を置く、竹の吊り棚の上には、竹編みの箱。その中には和歌の書、音楽の書、仏書の抜き書きを入れた。そばに折りたたみ式の琴と琵琶を立て掛けた。そしてその庵での暮らし、里山の中の自然の中の隠遁生活を楽しんだ。日野山のふもとの方丈庵の近くには、山守の小屋があって男の子が住んでいた。
「かれは十歳、これは六十。その齢(よわい)ことのほかなれど、心なぐさむること、これ同じ。或いは茅花(つばな)を抜き、岩梨(いわなし、ツツジ科の植物)を採り、零余子(ぬかご 葉の付け根の球状の芽)を盛り、芹(せり)を摘む。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて穂組をつくる。」
子供たちと遊び、春の藤の花、夏のほととぎす、秋のひぐらし、冬の雪に囲まれて、時に曲を弾き、時に読経をし、時に仮眠をした。
こうして、世を捨て、名利を捨て、住まいを捨て、「ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづからの情(こころ)をやしなふばかりなり」として山林に暮らした。しかし、「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり、すみかはすなはち、浄名居士(インドの高僧)の趾をけがせりといへども、たもつところはわずかに周利槃特(ブッダの弟子でダメ弟子)が行ひにだにおよばず。もし、これ貧賎のみずから悩ますか、はたまた妄心のいたりで狂せるか。」しかしその問いに対して心は全く答えず。ただ念仏を2、3回唱えて終わった。
「建暦二年、弥生の晦日ごろ、桑門の蓮胤(長明の著者名)、外山の庵にして、これを記す。」で方丈記を書き終えた。
その後、長明は方丈庵の閑居を愛する心を捨て、心を養うという世界から、さらに仏の教えのままに牧士にならんとして「発心集」を書いた。しかし、往生要集などと違って「道のほとりのあだ言の中に、我が一念の発心を楽しむばかりなり。」を発心集の序の結びにし、1216年(健保4年)62歳で亡くなる。
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