オランダは1602年に東インド会社を設立し、ジャカルタを中心にして植民地化を進めた。 台湾には1624年東インド会社が台南市に拠点を築き、支配をし、布教活動や教育を進めた。明は清との戦いに敗れ日本の徳川政権に援軍を求めた。しかし徳川政権は援軍を出さず、国内政治に集中した。明は滅亡し、明の忠臣、鄭成功が台湾を支配し、オランダ軍を台湾から追放。しかし1683年には、清朝の支配下に置かれる。 やがて日本は日本は清と貿易を開始し、そしてオランダもまた長崎の出島を通して、日本との貿易をおこなっていた。
台湾は1895年日清戦争の後下関条約で清から日本に支配権が移った。その時、清の外務大臣で全権大使の李鴻章は「台湾は化外の地」とよび、それほど重要視せず夷狄の土地に近かった。
日本統治下の台湾には亜熱帯の未開の地が広がっていた。高温多湿で山々が連なり、新高山で標高3951メートルで富士山より高いそれに続いて次高山があった。昆虫や植物は豊富で、中央山脈の高知には先住民の首狩族が住み、登山者は近寄ることができなかった。
台湾に行くのは、神戸港から出発し、商船三井か日本郵船の定期便に乗って、4日かかって台北に着く、ここに1926年台北帝国大学が設立される。ここを起点として南洋の領土が広がった時に備えて、農業の経営には、昆虫学や植物学が重要となることを見越して、戦前の植物学や昆虫学の中心に台北帝国大学がなった。台湾総督府となり、総督の児玉源太郎と医師出身で衛生学に詳しい後藤新平の統治により、総督府の研究機関には潤沢な資金が投じられた。
素木得一台北帝大の教授はロンドンから日本や東南アジア産の多くの甲虫の標本を持ち帰り台湾で昆虫学で多くの業績を上げた。日本の産業の養蚕の研究を行い、貝殻虫による街路樹の被害を天敵であるテントウによる害虫駆除で成果を上げ、農業害虫とその防除方を研究して応用昆虫学で有名になった。
当時、今西錦司らは南洋群島調査をおこなった。ボナぺ島、ヤップ島、パラオを研究対象としてフィールド調査を行い、植生や動物だけでなく、住民の生活も研究対象とした。これらの調査はやがて戦後の生態の棲み分け理論の基となる。
ボルネオやニューギニアの動物界でのウオールス線というのがある。セレベス島とボルネオ島の間の海峡それをフィリピンのミンダナオ島に向かって北に伸ばした線を生物の境界線とした。アジア大陸とオーストラリア大陸に住む動物は全く異なり、ニューギニア等の哺乳類はオーストラリアの乾燥地帯と異なり湿気が多い熱帯にもかかわらず、同じような有袋類の哺乳類が住んでいる。カンガルーは小型化して木登りカンガルーと呼ばれ、ジャングルで樹上生活をしている。これは氷河期には海面が今より低く、ユーラシア大陸はかつてボルネオ島まで陸続きで、一方オーストラリア大陸はニューギニア島とは陸続きだったことによる。
田中長二郎は、台湾総督府農業試験場に所属し、南洋群島の調査を行った。これはウオールス線の東側で、その地域の植物の分布を研究し南洋群島植物誌、南洋植物調査報告を発表した。そしてこの地域におけるアジア系とオーストラリア系の中間系であることを見つけた。これは風や潮流によるココヤシやアダンの移動。さらに鳥類によって運ばれる長距離の種の移動が見られるためであった。
第二次世界大戦の前、アジアは列強の植民地の支配下にあった。イギリスはインドから沿岸に沿ってシンガポール マレーシアそしてボルネオ島の北側を植民地にした。マレーシアは山岳地帯でインド人マレー人中国人が住んでいた。そこはゴムの一大産地でそのプランテーションでとれたゴムは世界中に売られていた。
一方インドネシアは当時のオランダ領東インドと呼ばれオランダの支配下にあった。このスマトラ島に1883年石油が採掘され、ロイヤルダッチシェルが開発し一大油田となっいた。
1939年第二次大戦勃発すると、1940年5月にドイツは、べルギーオランダ、フランスに侵攻し占領した。その結果、アジアの植民地支配の機構は消失した。アジアでドイツの占領を免れ残ったのはイギリスのみで、その撤退を恐れアメリカは南カルフォルニアから艦隊をハワイの真珠湾に移した。
1930年代日本の国内の石油生産量は7%で後は全て国外から輸入していた。80%がアメリカ、10%はオランダ領東インド諸島であった。
1940年日本は中国大陸に加えて南方へ進出、フランスのビシー政権にフランス領インドシナへの日本軍駐を認めさせた。そしてアメリカからの石油輸入を急速に増やし軍事用に使った。石油の対日禁輸に備え石油と掘削装置や組み立て式の貯蔵タンクを大量に購入した。
ヨーロッパで戦争が始まると、それがアジアにも波及し、ドイツ イタリアと同盟を結んだ日本に対して、アメリカは次第に石油や鉱物の日本への輸出を制限し始めた。 海軍は資源確保のため南方に進出す作戦を立て、オランダ領東インド諸島、マレー、インドネシア、南洋の島々に注目していた。1941年12月真珠湾攻撃と同時に、南方へも軍を進め、シンガポールを陥落させ、インドネシアの油田を支配下に置いた。
南方と呼ばれる東南アジアの地域は南洋の動物や植物研究の宝庫から、資源争奪の戦場になり、戦後独立した国々は経済的に発展し、今は貿易をめぐる綱引きの場になっている。

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