2023/01/25

1930年代 パンとサーカスの時代  



 1930年代 政党は目先の争いで国民の信頼を失い、軍と官僚はパンを求めて大陸に戦線を拡大し、大衆は技術革新に乗ってスリルとスピードを求めてサーカスに走った。センセーショナリズムに押され民主主義的文化や良識的報道はしだいに片隅に押しやられる。


 1930年(昭和5年)太宰治は帝大のフランス文科に入学し東京で生活を始めた。「いったい私たちの年代の者は、過去20年間、ひでえめにばかり遭ってきた。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に,既に私たちの殆ど全部が、れいの階級戦争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰くフネノフネ。曰くクロネコ、曰く美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。」と戦後に書き残している。


 翌1931年(昭和6年)満州事変勃発。日露戦争で手にした南満州鉄道は満鉄が経営した。鉄道の経営とともに大連港などの港湾を管理し、撫順の石炭や製鉄所を持ち、重工業の産業の役割を果たしていた。さらに満鉄調査部をというシンクタンクも持っていた。関東軍はこの権益を守り、さらに拡大するために、日本政府の外交努力を認めず、奉天郊外の柳条湖の南満州鉄線路を爆発させ、独断で中国軍を攻め、満州全域を占領下に置いた。

 この時、大手新聞社は、地方での発行部数を増やし、購読者を惹きつけるために、この満州での軍事行動を称賛し、軍人の犠牲を悼み、国民の愛国心に訴えた記事を競って載せた。


「続いて満州事変。5.15だの2.26だの、何の面白くもないようなことばかりが起こって、いよいよ支那事変になり、私たちの年頃の者はみな戦争に行かなければならなくなった。」太宰治は続ける。


 1932年(昭和7年)犬養首相暗殺の5.15事件で海軍軍人に民間人の橘孝三郎も加わった。橘は愛郷塾は農民組合活動を行い、その後日本の国家を変える運動に参画し、軍人たちとともにを行動を起こし無期懲役となる。 この事件に対して、行為は悪いが動機は正しいと世論は同情し、全国から百万通を超える減刑嘆願書が寄せられた。



  1935年(昭和10年)第一回芥川賞の候補に太宰治の「道化の華」がなるも結局選ばれず、ブラジル移民を題材とした石川達三の蒼氓に決まり翌年も、小田嶽雄の杭州を舞台にした外交官の物語が受賞した。その後も中国の奉天や上海あるいは樺太を舞台とした小説が芥川賞を受賞している。湿った、閉塞した内地日本と異なる乾いて、広がる外地が憧れの地となりつつあった。


この年保田與重郎と亀井勝一郎などと国学的民族主義の「日本浪漫派」が刊行される。


 1936年(昭和11年)夏に大宅壮一は「現代スリル論」を書いた。「近代社会は、モダンライフのストレスからの逃げ場を求めるスリルハンターにあふれている。なぜなら現代人は次第に空気が腐敗していく大衆社会のなかで息苦しさを感じているからだ。スリルには、スリルを求める以外の目的はない。スリルの質を評価する普遍的な基準も存在しない。なぜなら、すべては個人の好みや環境次第だからだ。となれば、重要な意味をもつのは、その量と、認識された危険率のみということになる。殺人事件や最近の2.26事件など、センセーショナルに報じられた暴力沙汰はスリルハンターに、平素のスリル欲を満足させる絶好のチャンスをあたえる。」この年に2.26事件は起きた。



 満州事変から6年後、1937年(昭和12年)7月支那事変勃発。新聞社や出版社は特派員を派遣して、センセーショナルに戦場を記事にして、売れ行きを伸ばしていった。 日中軍事衝突は、盧溝橋事件のあと、上海で海軍が軍事作戦を決行。そして陸海軍合同で首都南京を目指した。1937年8月の上海事変から南京攻略に従軍記者は1000人以上にのぼり、各社競争で戦争熱をあおり、文字によってお祭り騒ぎを起こし、東日の百人斬りの記事はこの時書かれ話題になり、他社もそれに加わった。むしろ軍部や政府はこの行き過ぎた報道に対して抑制する立場をとった。


 当時のことを、大宅壮一は「実感なき戦争」で、「停車場のプラットフォームでの兵士の歓送は、野球の応援そっくりのリズミカルな拍手がよく見られる。都会に限られてはいるが、日清、日露の頃には、まさかあんな送りかたはしなかったろう。」「国内にいる一般民衆の頭には、身辺に出征者を持つものを除いて、戦争といふものが実感となって沁みこんでいないようだ。」


 全国の戦勝記念の提灯行列で、人々は街々で通りに繰り出し、深夜まで騒いだ。東京の銀座では「銀座通りは百花繚乱。おなじみのミリタリーマーチが流れてきた、彼は戦場のスリルを感じる。」「戦争とダンス。地球のどこかのすみで砲声殷々と轟く時、泉の如く湧き起こるのはこれ、ダンス熱」と小野佐世男は描いている。


 新聞各社はスリル、スピードをきそって、センセーショナルな記事を書き、戦争を売り物として従軍記者や従軍作家は時代の寵児となった。「事ここに至るとニュースはその本質を脱して、もはや創作以外の何物でもない。   気まま放題なニューススピーディズムから軍機漏洩的行動に及んでは、それこそ国策を誤らせる。」


  1938年(昭和13年)近衛内閣になると、国家総動員法がだされ、内閣情報部から日本文芸家協会会長の菊池寛に対して、作家を動員して従軍するように求められた。そして陸軍班と海軍班に分かれて、武漢攻略戦に従軍しその状況を描くように求められ、これらに菊池寛、佐藤春夫、林芙美子たちも加わり、ペン部隊とよばれた。そして漢口一番乗りで、林芙美子は一躍文芸界の寵児となる。


その後政府は次第に統制を強め、国策に沿わない作品の発行を禁止し、その期間は、小説家にとって「愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守り通すのは、実に至難の事業であった。」

 

 1930年代、国策を進める国とそれを煽ったジャーナリズムとそれに乗った国民大衆の行動は、文学の世界でも国粋主義の台頭を支え、アカデミズムもそれに屈した。



2023/01/02

技術(テクノロジー)と宇宙船地球号の未来



 バックミンスター フラーはアメリカにおける偉大なクリエーター、発明家である。

 1933年フラーによって、ダイマクションカーが作られた。飛行機の形態で空気抵抗を抑え、11人乗りの3輪の車でドーム型の今でも斬新さを失わない、新しい車を作りだした。

 ダイマクションとは、ダイナミック(動的)とマキシム(最大)とテンション(張力)の組み合わせた、フラーの造語。

 1946年飛行機から材料を集め、中央に一本のマストを立て、そこから張りめぐらした引っ張るワイヤーによって軽いさまざまな素材の床や屋根を吊る構造の、組み立て式のダイマクション住宅を考案した。ダイマクション移動型共同住宅は、第二次大戦の最中に、移動可能な将校の住宅や兵舎、緊急の医療施設として設計された。戦後ウィチタ ハウスとして、エネルギー効率の良い、耐久性のあるハイテク住宅として建てられ、家の上に、フィンのついた丸い帽子が載っていてキャデラックのベアリングが入っているので風が吹くと、くるくると回り通気する構造になっている。この家屋は全部がアルミの合金で出来ているためたたみ込んでシリンダーに入れて飛行機に積んでどこにでも運ぶことができた。


 1970年代ローマクラブが「成長の限界」で、このままの生活を続けたのでは地球の資源は枯渇すると警鐘を鳴らした。それに対して、フラーは資源の再循環やメタボリックな再生力、そして人間の学習と改良の能力を無視していると反論した。科学に基づいて適切にデザインされた技術があれば、環境を改良することによって、兵器やエネルギー効率の悪いデザインあるいは、生存に寄与しない装飾品などの製造で浪費しなければ、地球には十分な資源があると考えた。サイエンス、科学的デザインによって環境は悪化しないし資源は枯渇しないと唱えた。

 1964年モントリオール万博のアメリカのパビリオンは、フラーの設計による正三角形の組み合わせの構造材を組み合わされて作られた球形の建物であった。球形のドームは支える素材に対して最も強度が高い。この巨大なドームは直径76.2メートルの建物で遠くからは光り輝く巨大な宝石にたとえられた。その後ジオティックドームは世界中で、様々な建物に応用された。日本では富士山レーダーやテントあるいは世界中で様々な住居で使われている。


 1968年にホールアースカタログが刊行され、1971年の最終号で終わる伝説の書物は、地球上のすべてのものが乗っているツールへのアクセスと副題が付けられ、バックミンスターフラーの「確実に動作する計器や機構に私は神を見る」とより良い地球を創り出すのは科学技術であるという哲学、最小の資源で最大の効果を得るという思想を反映していた。


 スティーブン ジョブズはシリコンバレーで生活し、この雑誌を気に入り、いつも持って歩いていた。雑誌は、役に立ち、自立教育に関係のある高品質で低価格な製品のカタログで、「それはまるで、グーグルが出る35年前に出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使える道具と偉大な概念が、それこそページの端から溢れている、そんな印刷物でした。」とジョブスは語っている。この雑誌はコンピューーター教育を専門とする財団ポートラ協会の支援を受け、発行されていた。この組織から1975年にパーソナルコンピューターキット 「アルテア」が紹介された。


 これを見てマイクロソフトのビルゲイツがコンピュータューソフトの開発を始め、ジョブスとウオッズはガレージでアップル コンピューターを作り1977年にはアップルIIが誕生した。こうしてパーソナルコンピューター時代は始まった。1980年代はインテルを使ったマイクロソフトのウィンドウズマシーンが処理速度などの機能が優れ、しかも安価で、世界中に広がった。それに対してジョブズは「マイクロソフトが抱えている問題はただ一つ、美的感覚がないことだ。足りなないんじゃない。ないんだ。オリジナルなアイデアは生み出さないし、製品に文化の香りがしない。」

 その後アップルはi phone、i Pad、i watchを次々と創り出し、技術による感情に訴える道具、ブランドを確立し世界一の企業となった。


 スティーブン ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で、新しい人生を踏み出す若い学生たちにこう語った。 「ホール アース カタログ 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎町の写真がありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。


 Stay hungry. Stay foolish」


 21世紀に入り、このコンピュータを使った情報通信革命はさらに進化していった。情報は大きな価値があり、適正な情報は人々の人生を変える。それを入手するためのコストがどんどん安くなって、簡単に誰でも手に入れられるようになった。この情報革命で世界中の人々を豊かにし、便利な生活が実現した。それと同時にこの技術は使い方によっては、人々の安全や自由を脅かす、ダークサイドもまた現実のものとなった。 


  2014年にロシアのゲラシモフ将軍は演説した。「戦争のルール自体が変わっている。政治的及び戦略的目的を達成する非軍事的手段の役割が増大し、多くの場合その効果において兵器の威力を凌駕している。」「我々が実際に話をしているのは新しい戦争理論です。その理論は情報戦と言う概念を拡大した。以前は敵の通信ネットワークと送信網を支えるコンピュータに対する攻撃であった。それが、21世紀になると敵の政府や軍文官を標的とする政治戦の形態へと発展していった。」 

 2014年にウクライナの光ファイバーケーブルが切断され大手電機通信会社が攻撃され固定電話やインターネットのアクセスは全て障害された。そしてウクライナの政府メディアの主要なウェブサイトは攻撃でダウンしウクライナの国会議員の携帯電話をハッキングされた。そしてほとんど無血で瞬く間に、クリミア半島はロシアの領土となった。



 技術は進歩し、技術(テクノロジー)の勝者か敗者で、個人の生活は決まり、国の盛衰が決まる。宇宙船地球号の未来も、テクノロジーの使い方で決まる世界になっている。


2022/11/18

アメリカングラフィティ 1970年代アメリカと映画


 1962年夏のカリフォルニアを舞台にした、反抗と変革の時代の始まる前の古き良き時代の若者の世界をロックンロールの音楽に乗せた映画、「アメリカングラフィティ」が1973年に上演された。その映画で4人が高校を卒業した翌年、1963年、J F ケネディー大統領は暗殺される。その後を継いだリンドン ジョンソン大統領は偉大な社会を目指し、1964年にはトンキン湾事件を受けて北ベトナム爆撃を開始し、ベトナム戦争を拡大していった。アメリカングラフィティ4人の若者の1人チャーリーマーチンスミスが演じたテリーは「1965年12月、ヴェトナム戦争におけるアン ロク付近の戦闘で行方不明と報告された」。


 60年代後半のアメリカ映画の一大潮流となったニューシネマは、「卒業」でダスティホフマンを「俺たちにあすはない」でフェイダナウエーをスターにした。そして「イージーライダー」という時代そのものを象徴する作品を生み出した。デニスホッパーとピーターフォンダ、ジャックニコルソンの3人はワイルドで行こうと、カリフォルニアからバイクに乗って、南に向かう。「イージーライダー」はビリーザキットであり、ワイアット アープだった。「ならず者が裕福になるというアメリカン・ドリーム。だが実際は自分の国を破壊している。それがストーリーだ」と監督のデニス ホッパーは語っている。

 そしてカンターカルチャーは世界を席捲し、ピーターフォンダとジェーン フォンダは反体制、反権威のトップスターになった。このニューシネマの流れは1977年の「ジュリア」まで続くことになる。この作品でジェーンフォンダは筋金入りの反ナチスの友達ジュリアを助けるヘルマン役を演じている。



 1970年代のアメリカはベトナム戦争の泥沼化により社会は分断し、街は荒廃し、経済もインフレと若者の失業者の増加で、人々の間に夢と希望は消え去り、内向する私的な時代 「何もないアメリカ」の時代となってゆく。ベトナム戦争はアメリカ人の徳の衰退と偉大な国家の意識を衰退させた。そして暴力事件と人種暴動が各地で広がる。

  フランシスコッポラ監督はゴッドファーザーで1940年代のアメリカやバチスタ政権下のキューバを舞台に、イタリア移民の暴力と争いの物語を製作する。ゴットファーザーパートI が1972年にパートII は1974年に上演された。

 ドン コルレオーネ一家の結婚式のシーンでその物語は始まる。勤勉な移民でアメリカの夢を追求して成功したゴッドファーザーはアメリカの法制度を信じていた事の間違いに気づき「アメリカがパラダイスだとでも思っていたのか、本当の友達にだったら身構える必要なんてないはずなんだ」と語る。 建国以来の故郷を捨てアメリカへの同化した世代から、やがて民族としてのルーツを大切にするファミリー、シチリアの同族による世界を描きだす。この時代、マイノリティー文化が復活し、民族のルーツの探求がさかんになった。黒人世界にとどまらずイタリアやスラブやポーランドなど新移民の民族の主張も起こってくる。




 70年代アメリカ経済は低迷し若者の夢は現実とはならない。この時代の若者の現実と夢を描いた映画が登場する。1976年シルヴェスタ スタローンが脚本を書き、主演した「ロッキー」が大ヒットする。何も誇ることのない30歳になった三流のイタリア出身のボクサーが、世界チャンピオンのアポロと闘い、打ちのめされても最後まで戦う姿を描いて時代をつかむ。

 1977年には、イタリアの労働者階級出身ジョントラボルタがマンハッタンで働くステファニーと出会いダンスコンテストでの優勝を目指すディスコ映画、サタディーナイトフィーバーで主演し、ビージーズの曲に乗って踊って流行の先端となった。

 

 フランシスコッポラ監督のベトナム戦争を描いた「地獄の黙示録」は1979年に上演された。諜報部員ウィラード大尉のマーチーン シンがマーロンブランド演じるカーツ大佐を探査、そしてジャングルの奥地に支配者の独立王国をみつける。政治的背景や正義は語らず、サーフィンやラスベガスの様なバニー、ワーグナーの音楽ワルキューレの騎行に乗って攻撃型戦闘ヘリコプターコブラが戦場に向かうシーンで根源的な人間の持つ暴力性と人間の狂気を描いた。

 この映画のロケ地はフィリピンで、コンゴ川の奥地え原住民を支配する物語「闇の奥」をベトナム戦争に置き換えて撮影されられた。

 


 1978年「ディアハンター」が上演される。アメリカ中西部の鹿狩りハンターがベトナムに行き解放戦線の捕虜になる。捕虜中のロシアンルーレットの恐怖、その後のアメリカでの生活、「タクシードライバー」に似たベトナム帰還兵をドラマ化した。その後の「プラトーン」や「ハローベトナム」、「7月4日に生まれて」など世界一の技術と、財力を持つ国の軍隊が、北ベトナムに敗戦しアメリカの価値観を揺るがしたこの戦争はなんであったか、第二次世界大戦の正義の戦争、大義ある戦争とは異質の戦争の現実をどの様にとらえ、人々をどう描くかで製作者は苦闘した。


 1970年代ベトナム戦争は泥沼化し、1973年1月ニクソン大統領は12年間続いたベトナム戦争の停戦合意を発表する。1975年サイゴン陥落により北ベトナムによってベトナムは統一される。そして、ニクソン大統領はウオーターゲイト事件で退陣し、フォード大統領からやがてカーター政権に時代は移ってゆく。カーター大統領は1981年に退場し、ドナルド レーガン大統領になり強いアメリカ小さな政府を掲げ新自由主義の政策を進める。


 70年代のアメリカはベトナム戦争を契機に生まれた反体制反政府、すべてのアンチであるニューシネマからロッキーのような困難にあっても負けない、人生肯定的な作品を生み出し、それが80年代の時代精神に乗ってジョージ ルーカスとスピルバーグの時代になる。ジョージルーカスの監督2作目になる「アメリカングラフィティー」は1973年に、1975年にはスピルバーグ監督27才の作品「ジョーズ」がヒットした。


  1977年スターウオーズの歴史の始まり、最初の作、「新たなる希望」が上演された。ルーカス監督は「若者たちに、僕たちの世代が持っていたような、正直で健全なファンタジー ライフを与えたかった。」と語り、現代の神話、新しいファンタジー映画「スター・ウォーズ」で夢と正義の世界をつくった。この正直で単純な心温まる物語はアメリカ国民に支持され世界中に広まっていった。


 1980年の選挙でレーガン大統領はアメリカ民主主義の道徳観と保守的政策で国民の支持を集めた。レーガン サッチャーの新しい資本主義路線はその後世界で共感を呼び新自由主義と呼ばれることになる。 レーガン政権のとき1983年にソヴィエトを悪の帝国と呼び、戦略防衛構想では衛星の軌道上に迎撃ミサイルを配置するシステムの軍事戦略を発表した。エドワードケネディーはこれをスターウォーズ計画と呼んでいた。


2022/11/06

欧州戦争 平和はいかに失われたか

 

大正3年に出版された雑誌欧州戦争実記である。




 日本の大正時代は、世界ではヨーロッパの戦争、第一次世界大戦の時代であった。日本は直接に参戦することはなく、欧州に輸出する軍需やその他の輸出で好景気にわいた。1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まり、総力戦がヨーロッパ全土に展開され、各国が兵器、物資の欠乏を訴え、日本は生産補給する立場に立った。国内各地に工場が続々と生まれ、経営者やそこで働く労働者が膨大な数になった。日本は4、5年で開発途上国から世界有数の工業国、資本主義国となり、給料は倍増し、物価も急上昇した。 そして「大正三年の夏の頃 波立ち騒ぐ大洋の 西の果てなるヨーロッパ 人の心も勇なり 」の歌が流行した。


 1900年(明治33年)ギルバートマレーが、どの国も「われわれこそ国家のなかの精粋であり、花である。そして、何よりも他を支配すべき資質を備えていると考えていた」と欧州の大国を書いている。


  1890年のドイツの人口は4900万人、その後大戦の前の1913年には6600万人に急速に増加した。強大な陸海軍を持ち、近代的工業力の充実、電気光学、化学の発展により巨大企業を育て、国力を高めていった。1850年代は取るに足りない領邦であったドイツの急速な台頭がヨーロッパ大陸の力関係を変えることになる。ドイツは大陸の中央に位置し西はフランス、東はロシアと国境を接していた。ビスマルクの時代にはドイツが領土的野心を持っていないことを周辺の大国とくにロシアとイギリスに納得させ、ヨーロッパの現状維持に努め、海外の領土拡張には熱意を示さなかった。

 20世紀に入ると、世界の列強は争って覇権を求めた。この拡張主義の時代にドイツは列強の力関係を覆すだけの財力と武力を手に入れた。陸軍だけでなく、海軍力も急速に充実させ、英国海軍に迫るドイツ海軍を作り上げてきた。 ウイルヘルム二世が政権につき、ビスマルクが退くと、帝国主義的拡張政策を推進した。1907年イギリスの外交官エア クロウは「ドイツの意図がどうであれ強力な海軍を持てば必ず覇権を追求する」と書いている。

 時の参謀総長シュリーフェンは対フランスの戦時戦略でベルギーを通ってフランスに侵攻するプランを策定し、モルトケがそれを引き継いだ。東部戦線での戦いの前に電撃作戦で西部で勝利し、その後に東部作戦を開始する戦略を立てていた。


 1910年、イギリスのジャーナリストノーマンエンジェルが「大いなる幻想」を出版。財政とか経済面で各国が依存しあい、戦争は今や実行不可能になったと論じて各国で話題になっていた。一方、同じ年ドイツのヘルン ハルディーの「来るべき戦争」が出版された。戦争を起こす権利、戦争を行う義務、世界制覇か没落かを論じた。そこでは戦争は生物学的に必要であり、生きるための闘争であり、国家には進歩かさもなくば衰退あるのみと主張した。ドイツ国民は、1870年以来武器と戦争こそドイツの偉大さのよってくる根源であるの主張に染まってきた。一方フランスでも失地回復の民族主義者愛国主義者の声が高まっていった。


 1914年(大正3年)以前のロシアは強力であると同時に弱体な国家であった。農業と個人消費は遅れ、社会の近代化が遅れていた。アレクサンドル三世の跡を継いだニコライ二世はお気に入りの臣下、道楽、気まぐれ、強情さに身をゆだね、政権はおびただしい数の秘密警察に占められていた。ニコライ二世の統治下で、不平不満は絶え間なく繰り返し、災害、虐殺、軍事的敗北、暴動が起こった。1908年から1914年に陸軍大臣を務めたのはラスプーチンと親交のあるスホムリノフ将軍で、銃剣こそが砲弾もかなわぬ至上のものという時代遅れの思想の持ち主で、後に権力の冒涜と怠慢で有罪となっている。このスホリノフと対立し力を持ったのがニコライ大公で2メートルコス長身で陸軍部内改革派の旗手で、日露戦争では騎兵監察長官を務めた生粋の軍人であった。来るべき対ドイツ戦争では指揮をとる計画であった。そしてオーストリア=ハンガリー帝国だけでなくドイツに対抗するためにフランスと同盟を結び財政援助を受け協調を深めていった。



 「バルカンのどこかで、途方もなくバカげたことが起これば、さし迫った戦争に火がつくだろう。」とビスマルクは予言した。

 1914年(大正3年)6月28日セルビアの国粋主義者がオーストリア皇位継承者フェルディナンド大公を暗殺。20世紀に次第に力を失い衰退の兆候を見せてきたハプスブルグ家のオーストリアハンガリー帝国の皇位継承者に対する、長年に渡りその支配のもと虐げられてきたセルビアの失地回復主義者による暗殺事件は、瞬く間に欧州全土を戦乱の渦に巻き込んだ。

 7月5日ドイツはオーストリアに対して、もしオーストリアがセルビアに制裁を加え、ロシアとの間に紛争が起きた場合は、オーストリアはドイツの誠意ある支援を期待してもよいと保証した。7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告。7月30日オーストリアとロシアは総動員令を発令。7月31日ドイツはロシアに対して最後通牒を発令。8月1日宣戦布告。8月3日にフランスに対して宣戦布告した。そしてのシュリーフェンプランどおりベルギーに侵入して、フランスに大規模攻撃をかけた。ロシアの士官も、ドイツのカイゼルもフランスやイギリスでも、木の葉が散るころには家にかえれるだろうと語っていた。こうして短期で解決するはずの欧州戦争は始まった。


 ドイツ帝国とオーストリア ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア帝国は同盟を結び、ロシア、フランス、イギリスは協商関係にあった。同盟の持つ意味はある紛争当事国が攻撃によって決定的打撃を受けても、あるいは戦争をつずける充分な資源を持たないことが明らかでも、その国は同盟国からの支援で戦争を継続できる。そのため欧州での戦争は誰もが望まない結果をもたらし、長期化し2000万人以上の死者を生みヨーロッパを崩壊に導いた。

 当時一般の短期戦予想に対して、モルトケは「今度の戦争は決戦では片ずけられない、国家総力戦になるであろう。そして我々は、国力が完全に衰退するまでは負けてしまわない。敵国を相手にして、長時間苦闘しなければならない、たとえドイツが勝ったとしても国民は徹底的に消耗してしまうであろう。」と予想した。イギリスのアスキス首相も1914年7月に「ハルマゲドンが近ずいている」と書き、フランスやロシアの将軍たちも絶滅戦争や文明の死滅を口にした。結局この対戦の結果、ロシア帝国、オーストリア ハンガリー帝国、ドイツ帝国は崩壊し1918年に終戦した。


 多くの政治家たちや軍人は長期戦の恐怖は感じていたものの、短期戦の期待とその計画に沿って戦争は進んでいった。20世紀最初の欧州における大戦はまさに多国間の相互作用によるもので、それぞれの国の皇帝、軍人、政治家や国民の政治文化の結果であり、その立場いた決定者の人間の本性にもとずく恐怖、傲慢、欲望、願望、理性的判断の織りなす結果であった。

 科学技術の急速に進歩した現在も、やはり変わることのない人間の心、世界の認識、妄想が国家の行動を支配している。

2022/09/30

人気映画シリーズ(1950年代〜70年代)  裕次郎から寅次郎へ

  戦後、1950年代、日本的生活様式や好み、あるいは戦前的遺制を色濃く残していた映画が多くつくられた。その代表作は東映時代劇で、その中の8作品は当時人気の出た少女歌手美空ひばりが主演していた。1950年の後半には、1年に10億人以上の人たちが映画館に足を運んでいた。そのピークは1958年(昭和33年)で年に11億2745万に達し、日本人全員が1月に1回は映画館に行ったことになる。


 石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、1956年(昭和31年)にこの作品が映画化され、大学生の弟、石原裕次郎は俳優としてデビューした。つぎの石原慎太郎脚本の「狂った果実」は葉山のヨットハーバーを舞台にした兄弟の物語で、29歳の蔵原監督や若い助監督達によって制作された。静止した映像とセリフで、既成の伝統的映画を壊した新しい映画となった。そしてフランスヌーベルバーグのゴダール監督やトリュフォー監督にも影響を与えた。「この映画は明白な単純性と明晰さを持っている。全てのショット満ちて、かつ豊かなのだ。なぜならばそれらは等価であり、そのどれもがつぎのショットに奉仕しないからである。」とフランソワ トリュフォー監督は語っている。

 もはや戦後ではない、明るい時代の象徴として、裕次郎の存在そのものが、古い日本を感じさせない全く新しい価値を体現していたと言える。1958年(昭和33年)最も多くの観客を集めた10作品のうち「陽のあたる坂道」や「嵐を呼ぶ男」など4作は裕次郎の主演映画だった。

 東映の時代劇に対して、日活は新しい路線を確立していった。小林旭と浅丘ルリ子は渡り鳥シリーズや流れ者シリーズで人気を保ち、浜田光夫と吉永小百合は民主主義的青春映画路線を定着させ、次々とヒットさせた。個人主義的アクション映画の石原裕次郎はコンビの北原三枝と結婚、その後20代後半、1960年に入るとアクションにメロドラマの要素を加えたムードアクションと呼ばれる一連の映画に主演する。孤独な雰囲気を持った、過去にこだわる主人公とヒロインの浅丘ルリ子の映画「銀座の恋の物語」でこの路線は始まった。


 同じ年に「憎いあンちくしょう」がつくられる。主人公の裕次郎は「ヒューマニズムを理解できるドライバーを求む。中古車を九州まで運んでもらいたし。但し無報酬」これに感動し自分で運転して九州まで中古のジープを届ける、ヒロインの浅丘ルリ子はスポーツカー、ジャガーを運転してそのジープを追った。この作品はフランス映画のようなロードムービーでしゃれた会話とヨーロッパ的な場面で時代を先駆ける、流行の先端を行く作品だった。日活は古い時代の日本とは完全に決別し、アメリカ、フランス、イタリアの映画作品を手本にした、赤いハンカチ、二人の世界、夜霧よ今夜も有難うなどの作品を作る。夜霧よ今夜も有難うはカサブランカの日本版とも言える作品で裕次郎と浅丘ルリ子の二人が共演する映画は12本になる。

 この映画黄金時代は1960年代の後半になると、しだいにテレビに主役の座を奪われ、石原裕次郎を主演にしたテレビ番組「太陽にほえろ」が1972年(昭和47年)に始まった。


 第二次世界大戦後の1946年3月にチャーチルが「鉄のカーテン」の演説を行った。その後世界は自由主義の共産主義の陣営に分かれ、対立する。ソ連の共産主義のプロパガンダに対してアメリカは日本の民主主義の文化による支援を始めた「自由な人びとが、全体主義政権を押しつけようとする外圧に逆らって、自分たちの制度とその本来の姿を守る手助けをする」目的もあって、アメリカの良質な映画、良きアメリカンライフの作品が日本に輸入された。


1962年(昭和37年)に「007は殺しの番号」で007シリーズの第1作目が公開された。主役ジェームス ボンドが、カリブ海のジャマイカを舞台に、活躍する。第二作目は「007危機一発」ソ連情報部のタチアーナからの手紙でイスタンブールに向かうショーン コネリー主役のジェームス ボンドが世界的犯罪組織スペクターと戦う作品で、後に「007ロシアより愛をこめて」と題名が変更された。翌年にさらには「007ゴールドフィンガー」、そして、「007サンダーボール作戦」と次々日本でも上演され大ヒットした。この時のジョンバリーのサンドトラックは、当時の若者に大流行し、各地の高校の文化祭でその音楽は流された。1965年(昭和40年)の日本での洋画観客動員の一位は「007ゴールドフィンガー」よく1966年(昭和41年)は「007サンダーボール作戦」、1967年(昭和42年)は「007は二度死ぬ」で3年連続で日本人の最も多く見た作品となった。


 戦後生まれの若者世代が次第に豊かになり、これらの世界を違和感なく受け入れ、むしろジェームスボンドの乗る車アストロマーチンDB5、お酒のマティーニやブランド製の食べ物へのこだわりだわりはむしろ憧れの上流社会の生活の典型として受け入れられ、それを取り入れようとした。 

 作家イワンフレミングは陸軍の士官学校を卒業後ロイター通信に勤務し、その後第二次大戦中は諜報部に勤務した。生まれつきの上流階級の出身で、戦後はケムスレイ新聞グループに勤務し、年に2ヶ月寒いロンドンを脱出して、美しい海のジャマイカの別荘でスキューバーダイビング生活中に007シリーズを書き、出版した。ジェムス ボンドの生活はイワンフレミングの生活そのもので、華やかな西欧世界の憧れをまとった初期5作品の主役は、ショーンコネリーが演じている。


 この米ソ対立時代のスパイブームはテレビドラマにも広がり「0011ナポレオン ソロ」は1964年(昭和39年)から、「スパイ大作戦」は1966年(昭和41年)から放映が始まり、トムクルーズ主演のリメイク版「ミッション インポシブル」を作り出すことになる。これらの短いカットを重ねる回転の早い画像や物語の展開、広大な自然を背景にした、車やボートやヘリコプターを使ったアクション場面、そして時代背景としての米ソの冷戦を反映し、お茶の間でも多くの視聴者を獲得した。


 1967年(昭和42年)中根千枝著作の「タテ社会の人間関係」が発売された。日本社会の人間関係は、個人主義契約精神の根づいた欧米とは大きな相違をみせている。日本独特の人間関係を国外と比較し、内と外の意識、先輩後輩といった日本独自の社会システムを分析した。


「男はつらいよ」シリーズの第1作が1969年(昭和44年)に始まった。遠い世界のおとぎの国の夢もの語りではない、等身大の世界の人情話。近所の人や家族との人間関係、時には重荷になるような思いやりの世界をゆっくりした画面の展開と寅さんの語りと、日本の四季の風景を織り交ぜて展開する。そこでは、人々は自己主張はしなくても、個人主義を主張しなくても安心できる古くからく下町庶民の世界が展開する。


 第25作は浅丘ルリ子と共演する、「寅次郎ハイビスカスの花」が上演された。沖縄の美しい海、青い空の下に東京から寅次郎は空路、病気のリリーを見舞いに飛んでいく。夢のような生活、そしておいちゃん、おばさん、さくらの待つ下町のお店の東京葛飾柴又に帰る。そこは、かき氷、蝉の声のする日本の夏だった。

 古い日本的映画はすたれ、無国籍の架空の北の大地や港町の物語に変わって、日本社会の人間関係、懐かしい日本の風景、下町を舞台にした新しいタイプの日本的映画が生まれた。


 歌の世界でも1960年代のイギリスのビートルズやアメリカのジャズ、プレスリーやカントリーソング フォークソングから1970年代は、日本の若者たちのオリジナルなフォークミュージックが創られ、今までの歌謡曲世界を変えていった。




  浴衣のきみはススキのかんざし

  熱燗とっくりの首つまんで

  もう一杯いかがなんて

  みょうに色っぽいね             旅の宿     吉田拓郎


2022/08/16

寺山修司 時には母のない子のように II

 時には母のない子のように だまって海をみつめていたい

時には母のない子のように ひとりで旅に出たい 

だけど心はすぐかわる 母のない子になったならだれにも 愛を話せない


 寺山修司は1935年(昭和10年)生まれ。父親寺山八郎は4才のとき、セレベス島で戦病死してその後、母親せつと、父のない子の生活が始まる。


 わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びき番人が棲む


 わが鼻を照らす高さに兵たりし父の流灯かかげてゆけり


 父親になれざれしかな遠沖を泳ぐ老犬しばらく見つむ


 1954年(昭和29年)「チエホフ祭」1957年(昭和32年)第一作品集「われに5月を」を発表、1958年(昭和33年)第一歌集「空には本」を刊行した。


 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 

 少年時代から、言葉の力を信じ、言葉の生み出す力を信じる、それは終生変わることはなかった。感情のさらに奥にある情念、故郷や父の不在や母の存在、血縁の修羅を言葉とした。「短歌31の言葉の牢獄に、肉声のしたたりを封じ込めた。」と語るその心の奥底の不定形の情念は、日本的アニミズム、因習、血縁の世界であった。しかし、心の奥を言葉にした初期の頃の短歌や、日本の従来の短歌の特徴とした、私的な自己告白の歌は否定し、ロマンとしての短歌、歌われるものとしての短歌をめざした。


 すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を越えて来し郵便夫


 みずうみを見てきしならん猟銃をしずかに置けばわが胸を向き


 林檎の木ゆさぶりやまずわが内の暗殺の血を冷やさんために


 1962年(昭和37年)「血と麦」を刊行した。「私の体験があって、なお私を超えるもの個人体験を超える一つの力が望ましい。心、鬼そんなものを自分の血のなかに、行動のバネのようなものとして蓄積しておきたい、と思っている。」

 それゆえに政治的な発言も政治的社会的な文脈から離れ、言葉とその情感、心情に、共鳴する形で評価した。そして現状の破壊者としての、ヒットラーを論じた。「ネロの一生はどこかヒットラーの一生を思わせる。彼らはオペラハウスでやることを国家の歴史の上で演ってしまったという「場違い」をしただけのことだからである。」我々に興味があるのは思想でなく思想をもった人間である。

 詩人もたとえば本気でデモの効果を信じ、テロを信じ、世直しのための実践活動家になってはいけないのである。その後も「革命は呪術化し、運動は祭儀化し、幻想の世界を抱え込む。」と赤軍派を擁護している。 寺山修司はこのカルチャーに対するカウンターカルチャーとして反合理主義、反歴史主義の新しい世界を言葉と映像の世界で生み出そうとした。



 新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥


 かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭


 1965年(昭和42年)「田園に死す」を出版。その表題は恐山、犬神、子守唄、山姥、そしてこの歌集に新たに文を添えて出版した。短歌のかたわら、1960年代にはドラマを書き、演劇の脚本も手がける。やがて短歌の世界から、演劇実験室天井桟敷に活動を移す。



 1967年(昭和44年)「青森県のせむし男」を皮切りに新しい演劇は開始され、第二回の公演は「大山デブコの犯罪」だった。天井桟敷は「毛皮のマリー」、「青ひげなど」親と子の古くからの因習を見せ物的構成とアバンギャルドな衣装、新しい視覚の表現によって演劇にした。


 1968年(昭和45年)アメリカの前衛劇の事情視察のための渡米した。1960年代後半、時代は世界的に、カウンターカルチャー、若者たちの反抗の文化、ヒッピーやパンクがアメリカから起こり文化運動として世界に広がっていった。ヨーロッパでもパリのカルチェラタンや日本でも若者の反乱が起こっていた。体制に対する反逆、家や家族制度、学校教育あるいは理性的秩序、愛情に叛逆の衝動を広げていった。

 同じ年、寺山修司はニューヨークのブロードウェーのミュージカル「ヘアー」のヒッピー文化と共鳴する。その年「書を捨てよ、町に出よう」の舞台で反逆するハイティーンを登場させ、「時代はサーカスの象に乗って」でその時代のアメリカを描いた。


 1970年代からは市街劇という新しい試みで、舞台を街中に移しての演劇を試みる。そして初期の実験演劇は情念の劇、怨念の劇に退化したとして、俳優中心の人間同士のドラマから、人間とものとの対立、虚構と現実の入り組んだ迷宮の中に新しい世界を作る演劇を目指した。

 70年後半には「盲人書簡」「疫病流行期」「阿呆船」など多くの海外公演を行い、呪術的、祭儀的、麻酔的陶酔をもたらす劇として迎えられた。

 

 「奴婢訓」奴婢は奴隷で、その奴隷が主人に変わる、権力の不在「レミング」で壁を壊す男の物語で壁を壊した後の偶然と無秩序の世界を描き、「百年の孤独」で生と死と過去と未来の反転する実験的演劇作品を作り最後の寺山作品となった。


 日本のカウンターカルチャーを世界に発信した寺山修司は、既成の文化に対して、反文化を、権力に対して反権力を、演劇を通して実現しようとした。多くの思想、作品をコラージュ的に取り入れ舞台音楽と映像を進化させていった。


 その世界観は、現実は一つではなく、多重構造である、自分自身でさえ自分の分身を規定しないと理解できない。母と子の物語と自己の中心の不在、自己を意味づけるものの不在をテーマの演劇を様々に、装いを変えて、繰り返し、繰り返し作品とした。その演劇では、人間と自然との関わりあるいは宗教や道徳は不在のまま、私とは誰かを問い続け、意識する自分が、意識下、無意識の自分の発する言葉、思想などさまざまな断片のコレクションを言語化し視覚化し表現した。


2022/07/31

トムクルーズのトップガン  若さと新宗教



 トップガンが今年再び世界中で上演され、アメリカで話題の映画となっている。トップガンはトムクルーズがハリウッドのスターになる最初の出世作で、1986年に上演された。それから36年、永遠の若さを保つトムクルーズが再び戦闘機の天才パイロット、マーベリック教官として帰ってきた。トムクルーズはミッション インポシブルシリーズやアカデミー賞候補作品だけでなく、バニラ スカイ、宇宙戦争、オプリピオン、マイノリティー リポートなど多くのSF作品で主演し、今でも世界中で放映され人気を保っている。

 

 トムクルーズ60才、老化することを知らないハリウッドスター。ベビーブームから彼らの世代にかけて世界は時間とともに良くなり、死や老化さえも克服され、より良く、より健康に年をとることができるという未来を思い描いている世代である。彼ら世代は、もしかしたら永遠の若さを保つことが可能かもしれないという希望から、老化のメカニズムを解明し、永遠の若さを手に入れる研究を進めている。

  その研究の結果明らかになったことは、「ホッキョククジラは哺乳類の中で最も寿命が長く、人間の平均寿命の平均3倍の寿命で、これは生物の進化の途中で遺伝子の変化によって種の寿命が延びたためである。」また、マウスの平均寿命の10倍の30年生きるネズミも見つかっている。 今年の6月には、「カメでも加齢で死亡リスクは上がるようだが、極めて遅く、事実上老化はない。」という科学論文がデンマーク大学から発表された。カメは成熟しても成長が止まらない。それは細胞の修復機能が維持され、老化しないのではないかと想像される。


 現在人間を作っている3万3000個の遺伝子の内3万2340個は何の役割をしているのかがわかっていない。このゲノム情報と表現型の情報を組み合わせて統合ゲノムを作ると、遺伝子と実際の人の形や病気の可能性まで明らかになる。健康、老化、病気は遺伝子から解明される。

 2015年に人間のDNAの一部を解析して、実際の顔を正確に再現できるようになった。この研究チームは次に目指したのは人の健康寿命を伸ばす研究になった。遺伝子の解析で、この遺伝子の命に影響を与える病気が現れる前にこれを取り除くことができれば人はいくらでも健康に年を重ねられる。さらに、昨年2021年日本の研究で老いたマウスから肉体の衰えにつながる老化細胞を取り除く実験に成功したと報じている。

 

 不老長寿の夢の研究だけでなく、身体機能の回復の研究も進化している。2014年のSF映画オールユーニード イズ キルではトムクルーズがロボットの外骨格を使ったジャケットで戦場に現れる。これが現在コンピューター化した外骨格を人の下半身にストラップで装着し、脊髄の損傷患者などが、立ったり歩いたりするときの支援に使われている。さらに脳マシーンインターフェイスと言って、脳内に小さいコンピューターチップを埋め込んで、脳の機能を拡張する研究が進んでいる。


 一方で、人の脳の活動、心の働きは複雑で、なかなか機械で制御することは難しいのが現実で、 トムクルーズはディスクレシア(識字障害)に悩まされ、時々自分が何者かわからなくなることがあったことや、アルファベットのbとdの文字が判別しにくく、台本をアシスタントに読んでもらいセリフを覚えたことを語っている。 その心の違和感や惑いを感じていたときサイエントロジー教会に出会い、今でも深く関わっている。 


 サイエントロジー教会は、1954年にロン ハバートによって設立された新興宗教で、人生をより良くしてゆくための実践的方法が描かれ、自分の成長を無意識に妨げている、過去のトラウマなどの原因を取り除いて、自分本来のあるべき姿を見出し、人生を成功に導く方法を示す実践的宗教哲学。世界で900万人以上の信者を抱え、各国に音楽学校、美術学校、演劇学校やコンピューターの会社や不動産会社を名前を変えて、活動を展開し信者を獲得している。営利団体なのか、カルトなのか、宗教団体か、国によって評価が分かれている。アメリカ、イタリア、ニュージーランドでは宗教として認められ、フランス、ドイツ、イギリスでは認められていない。


 アメリカでは他にも何百もの新宗教運動の団体があり、1970年の後半からは、ヒッピー運動のカンターカルチャーと霊的(スピリチュアル)な人と地球の癒しを求める運動が起こり、全米から世界と広がっていった。この精神世界、スピリチュアルなものは自己啓発や自己解放、心理的技法を用いた自己コントロールや調和の追求に向かう。これは新たなスピリチュアル運動(New Spirituality Movement)と呼ばれここから新宗教運動も起こっている。


  人の心は複雑で、人の人生には常に困難が待ち受ける。自分を支えるものを失ったり、自分が何なのかがわからなくなる体験は誰もが経験し、人類は誕生以来それらの困難に遭遇してきた。そして、孤独感から温かい人と人の繋がりを求めたり、不安定なこの世を理解した指導者を崇拝したり、自分の存在意義が見出せたとき、心に充足感を覚える。まさに、人はパンのみで生きているのではなく、呪術や宗教を生み出し、そこから派生する倫理や道徳のもとで社会生活を送ってきた。既成宗教が力を失い、その共同体の世界より、それに拘束されない自由な世界を生きる人が多くなると、既成の宗教に代わる、新興宗教が力を持ち始めた。その中に宗教的カルトも生まれてきた。

 宗教の難しいのは既成の宗教であるキリスト教も、歴史をさかのぼれば、原始キリスト教は教義上の争いから、中世に入ると正統派と異端派が生まれ、異端狩りや分派闘争を繰り返し、カルト教団も勢力を伸ばした。宗教グループはそれぞれの社会的政治的背景を持ち時の権力の対立者として現れたり、協力したり、自らが権力を握ったりした。

 そしてカソリック、プロテスタント、ギリシャ正教など、現在に至ってもキリスト教内でも宗派間の対立は残り、イスラム教など他宗教との対立はさらに激しい。そして時代とともに宗教は衰退していくことなく、中東やアフリカではイスラム教の政権が誕生し、ラテンアメリカではカリスマ派キリスト教が盛んになり、エホバの証人やモルモン教も世界中に広がっている。先進国でも新興宗教が社会問題を引き起こす事件が増えている。


 そもそも人間は言葉を連ねて、文学をつくり、感情を連ねて、宗教をつくるように進化してきた。宗教の定義も様々で、「ある見えざる秩序が存在しており、それに調和的に自らを適応させるところに最高の善があるとすると信念」と20世紀初めに定義された。そして、20世紀末には宗教は終焉するとも考えられてきた。しかし21世紀になっても、宗教は人間の本性であり、人間社会を構成するものであり、人間が社会を創る限り、形は変化しても宗教は消え去ることはない事がわかった。  近未来SF映画の世界のように、AIなどのコンピューター技術が進歩し、バイオテクノロジーが脳内の操作を可能にしても、それに見合った斬新な宗教が生まれてくる可能性がある。