林芙美子は1922年(大正11年)尾道から東京にやってきた。この20年代、復興景気にわく新宿の都市生活、下町の東京の放浪時代の小説「放浪記」を1930年(昭和5年)26才の時、出版し、多くの地方から上京した若者たちに支持され、作家として脚光を浴びた。この時代、都市では職業婦人が活躍し、地方からの多くの若い女性たちも店員、事務員、女工あるいは女給などの仕事についてモダーン都市、東京で生活をしている。
1910年代は第一次大戦の時代で、戦火を免れた日本は、その結果もたらされた軍需による好景気で工場が次々と都市に建てられ、全国から若い労働者が集まり、東京の人口も急激に増加した。1920年(大正9年)から毎年10万人から20万人の人口が東京に向かい10年間で人口は2倍に増えた。こうして1920年代東京は新しい都市空間を作り出した。
龍胆寺雄は1928年(昭和3年)「魔子達はデパートの明るいウインドウの前で盛んに活動していた。夜更けで女っ気の乏しくなった折でもあり、彼女らのきらびやかな娘姿はおおびらに周囲の視線を集めていた。」と「放浪時代」に書き、翌年1929年(昭和4年)「アパートの女達と僕」でその風景を「カフェM.の光の渦をはらしたドアへ足を入れかけて、ふと僕は店の向こうの化粧壁の一部を削ったベビーショップのつららのかけらのような小さなショーウインドーを見やった。」と当時東京の街には商業美術デザインが登場した様子を描き、アパートやデパートなど新しい都市の建物ができた東京の都市空間そのものを小説にした。
「放浪時代」の主人公URと真子とその兄の都会生活は、1920年代の世界の中の都市生活を描いたニューヨーク、フィッツジェラルドのジャズエイジそしてヘミングウェイのパリの日々と同じようになりつつある大都市東京の記録である。
関東大震災は東京を灰塵に帰したものの、震災後に東京再建計画で道路は拡張され、同潤会アパートなどのアパートが建てられた。同時にアメリカ文化、アメリカの資本主義の世界が、映画や小説をなどを通して、急速に流入し、銀座はこのアメリ文化を取り入れアメリカ化していった。ジャズエイジのフラッパーと呼ばれる、タバコを吸い、酒を飲み、ダンスをする新しいタイプの活動的女性が大都市東京に生まれた。
林芙美子は1930年(昭和5年)9月から1ヶ月中国大陸を一人で旅行し、ハルピン、長春、奉天、大連、さらに、南京、杭州、蘇州などをまわっている。そしてあこがれのハルピン行きの列車の始発駅錦州で生まれて初めて洋服を買い、日本より幅の広い列車で紅茶を飲み、ハルピンに着く。街を散歩し「キタイスカヤの巴里的な街よりも、松花江の河床に発達したと云ふフウジャテンと云ふ中国人の街が大変好きでした。」と書いている。
大連は遼東半島にある都市で、ロシアが租借権を得てパリと同じような港湾都市を19世紀末に建設した。これを日本がポーツマス条約で租借権を譲り受け、大連となずける。1925年(大正15年)には19万8000人の人口で、日本人も7万6000人住んでいた。 この地、大連にアヴァンギャルド文学が生まれる。詩人の北川冬彦や安西冬樹の「亜」の短詩運動である。
関東大震災後、日本の国内では、ヨーロッパのダダイズムなどのアヴァンギャルドの芸術が日本のモダーン都市東京に流入した。大連でも北川冬彦や安西冬樹などが1924年(大正13年)に「亜」を創刊した。フランスの詩人ギョーム アポリネールやルナールの詩 「蛇」 長すぎる と共通の芸術、詩と絵画を目指した。
てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った 軍艦北門ノ砲塔ニテ
安西 冬衛
軍港を内蔵している 馬
落日が鏡のごとく平原に汎濫した。 砲撃
北川冬彦
日本の平静さとは異なり1930年代に入るとヨーロッパでは政治の混乱が起き、アジアでもペナンやシンガポールでは満州事変に対する反日本帝国の運動が起こっていた。
林芙美子の「シベリアの三等列車」は「長春へ着いたのが十一月十二日の夜でした。口から吐く息が白くみえるだけで、雪はまだ降っていません」の書き出しで始まる。この2ヶ月前の1931年(昭和6年)9月18日に満州事変は起きた。「なにごともなくハルピンに着きました。」と書いた一週後に関東軍は斉々哈爾(チチハル)入城をし北満に進駐した。その後林芙美子はシベリア鉄道でパリに着き、「下駄で歩いた巴里」や「巴里の小遣い帳」を発表している。、その小説ではロシアの風景を「いよいよロシアです。青い空に真っ赤な旗が新鮮でした。赤い貨物車がはしっている。杳々とした野がつづいて、まるで陸の海です。」と美しく描いている。
1900年頃に生まれた人が、1920年代に若者となり、豊かになった日本の都市や外地で多くの文学作品を生み出し、新しい文化を流行させた。1898年横光利一、1899年に川端康成、1900年に北川冬彦、1901年に竜胆寺雄、1902年に小林秀雄や中野重治などが生まれ、1903年には林芙美子が生まれて、青春時代に新しい文学、詩や芸術の担い手になる。
1920年代は技術の進歩によって車や列車、飛行機に乗って移動し、ラジオや映画で娯楽を楽しみ、アパートで暮らし、デパートで買い物する新しい生活は文学で新興芸術派やアヴァンギャルド派を産み出した。政治の世界で社会主義革命を実現することを目指すプロレタリア文学も広がった。1930年代に入ると、激変する世界の影響はしだいに国内にも波及し日本でも国民の意識や気分は次第に変わってくる。街は繁栄し、人は着飾り、文化も栄えていた。しかし人々は都市を享楽的すぎると捉えるようになり、農村の暮らしの中にこそ正しい在り方があるという農本主義の思想が若者たちに支持されつつあった。そして、プロレタリア文学と新興芸術、アヴァンギャルド文学はともに時代の表舞台から消えていった。
