岬の彼方には何もありはしなかった。ただ無限の、狂おしいほどの量感の水の連なりだけがあった。
それこそ、僕らの願い至ったもの、僕らの目的の水の大平原だった。
僕らは遂に来た。今、たった今、僕らはそれに向かってまっしぐらに進んでいる。
体の奥深く、慄え戦くものがあった。それは安らぎ、幸せ、満足、それらを超えた、僕らがようやくぼくら自身の運命に向い合え、それを捉えようとしているような戦きだった。
星と舵 石原慎太郎
第二次世界大戦に敗北し日本の価値観は根底から覆された。人々は平和へ素早く適応した。雑誌も「戦時女性」は「婦人画報」「兵器技術」は「平和産業」「戦時医学」は「総合医学」に衣替えした。 新日本文学の1946年号で、戦争責任を負う文学者として25人の名が挙げられた。横光利一、菊池寛、高村光太郎、西條八十、斎藤茂吉、亀井勝一郎、小林秀雄、火野葦平、保田与重郎、武者小路実篤、吉川英治、などで、かつての花形国粋主義文学は没落し、夏目漱石や永井荷風が読まれ、河上肇も復活し、1947年には宮本百合子の「播州平野」もベストセラーに名を連ねている。
戦前に活躍した作家、谷崎潤一郎や川端康成も復活しその耽美主義が支持された。、その中から坂口安吾、田村泰次郎、太宰治の若手の作家が頽廃や個人主義を世間の常識を紊乱する方法で主張した。
坂口安吾は堕落論で、敗戦の表情はただの堕落に過ぎない。ここにこそ真実のはじまり、真の人間性への回帰のはじまりがある。
田村泰次郎は、肉体の門で抽象的思想を否定して、肉体の持つ信頼性を称える小説を出して、当時の流行となり映画化された。
太宰治は、戦後時代の気分、失望感や没落の中の美や、ほのかな希望を作品に託した。戦後民主主義にも否定的で、実際に物語と同じように多摩川で入水自殺。
その頽廃的な、暴力的な、人間の浅ましさを強調する作品に対して、「敗戦以来、日本では独創性のあるものや、価値のあるものは何も書かれなかった。」評された。
芥川賞は興行価値の高い、新進の作家に贈られる。そして新進の作家は時の勢いに乗ると才能は膨れ上がり、そうでなければ才能はしぼんでしまう。 石原慎太郎の太陽の季節は、暗い、日陰での陰鬱な作家には無い、日本の停滞した状況を打ち破る新しい文学として日本の文学界、社会に登場した。1956年(昭和31年)に「太陽の季節」は芥川賞を受賞し、映画化される。
当時、戦争で、日本の支配者層は一掃され、占領下に民主主義は導入された、しかし日本社会の一般的人々には戦前からの儒教的徳目は残っていた。キャッチコピーは「背徳か、新しいモラルか芥川賞が世に投じた一大波紋」。こうしてスター石原慎太郎は登場した。映画の脚本の「狂った果実」「俺は待ってるぜ」などを書いて、映画にも主演している。
我々の世代が時代に持つ意味は、我々が共通して抱く、既成価値に対する不信とある面では生理的な嫌悪。それこそ我々の世代の新しさであり若さであるはずではないか。1958年「価値紊乱者の光栄」で語っている。この年江藤淳の呼びかけで「若い日本の会」に参加する。同世代の開高健、羽仁進、などによって作られ、それに大江健三郎や永六輔そして石原慎太郎も加わる。同じ世代の若者たちの集まりでやがて、日本の政治や文化の担い手になる。
1959年4月の皇太子の結婚の儀で投石した男にあった「あれをした男」を文春に掲載し、1960年安保の最中、政治に直接関わることはなく小説の世界で活躍した。「狼いきろ豚は死ね」の戯曲を書き、その後長編小説「亀裂」を書き、「行為と死」はベストセラーとなる。1965年起きた拳銃事件を題材にした「嫌悪の狙撃者」でその犯人のこころの中に抱く嫌悪の情を小説化した。 石原慎太郎は多くの小説を書きつつも情熱の注ぐ方向は決めかねていた。文学に賭けるか、ヨットやスポーツなどの冒険にかける活動家になるか、あるいは政治に関わるか。
1967年美濃部都知事が誕生。日本には革新の風に乗って、多くの知事が生まれた。これに対抗して自民党から1968年参議院に出馬し、「日本という祖国は羅針盤を欠き、海図を読むことの出来ぬ船頭たちによって操られているのだ。彼らにはもはやこの歴史の転換期に真の革新を行い、未来に備える国づくり行う能力も資格もない。我々の手で青年の国をつくろう。青年の歴史をつくり出そう。そのために、君の力をかしてくれ。」と訴えて300万票を獲得して初当選。
その後、石原慎太郎は、1970年代には青年政治家として政治的タブーを壊し、自らの情念から発した理想について語った。そのタブーとは、日本人の起こした全ての戦争が侵略戦争とは言えないこと。安全保障は必要であること。核は積極的に開発されるべきである。といったこと。それらを実現するべく1973年「青嵐会」と名ずけた超党派の政策集団を立ち上げた。 当時、江藤淳は「小説家としても、政治家としても資質は恵まれ過ぎる程めぐまれていた、しかし自己訓練をする必要性は感じず、その危機感もなくプロになろうとはしなかった。」と評論した。
僕らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮らしていた。僕らの生活は、外部から完全に遮断されており、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮らしていた。
他人の足 大江健三郎
大江健三郎は石原慎太郎より3年後1935年に四国で生まれ、1957年「奇妙な仕事」を書いた。これは大学病院の裏の囲いに収容されている実験用の野犬たちが夕暮れに吠えつずける話や戦中の国民学校で飼い犬を殺して外套を作る少年時代の経験をもとにして初期作品を書き上げた。この作品で学生時代に認められ、姉妹作「死者の奢り」を出版し、1958年には四国の土着的な世界の黒人兵の運命の物語「飼育」で芥川賞を受賞する。そして石原慎太郎と同じく新世代の作家の代表になる。
一方政治的には若い日本の会に参加し、60年安保反対の陣営に加わる。1961年「セブン ティーン」、「政治少年死す」で浅沼稲次郎社会党党首を暗殺し、「天皇陛下万歳、七生報国」の遺書を書いて自殺した右翼青年をモデルに小説を発表した。その性と政治の物語の延長に「われらの時代」を世に出した。
セブンティーンのヒーローは、自由で不安な内部に存在する国民主権よりも、もっと絶対的に確実に感じられる主権を外部に求めた。その意図は反牧歌的な現実世界の20世紀後半タイプの平穏なうわずみをかきたて、なめらかな表層をうちくずすために、性的なるものがもっとも有効な攪拌器、あるいはドリルだと信じるからであると「厳粛な綱渡り」で解説している。
同じ年1961年には三島由紀夫は「憂国」を中央公論に載せる。やはりバタイユ的な死に至るまでの生の称揚をモチーフに政治とエロスと死を小説化した。この中で天皇制を、憂国では肯定的に描き、セブーンティーンでは批判的に描き、政治問題を引き起こした。
1960年代にはヒロシマ ノートなど戦後民主主義擁護の作家として活躍した。「修身の時間のかわりの、新しい憲法の時間、という実感のとおりに、戦争から帰ってきたばかりの若い教師たちは、いわば敬虔にそれを教え、ぼくら生徒は緊張してそれを学んだ。ぼくはいま、「主権在民」という思想や「戦争放棄」、という約束が、自分の日常生活のもっとも基本的なモラルであることを感じているが、そのそもそもの端緒は、新制中学の新しい憲法の時間にあったのだ。」この戦後民主主義にかける姿勢は変わらなかった。戦後の時代の都会の人間を描き、その神話的世界、難解な小説は知的な人の必携の書となり、その後も小説家としての努力を続け世界で評価された。
1960年代政治の季節に石原慎太郎は自由主義と愛国を訴え大衆の支持を集め、大江健三郎は戦後民主主義の旗手となり、高橋和巳は「悲の器」や「孤立無援の思想」で全共闘支持派の学生たちの高い評価を受け、開高健は行動する作家として活躍していた。三島由紀夫自刃と浅間山荘事件で日本の政治の季節は終わりを迎えた。
