2025/04/17

戦後物語の終焉

 

                古代都市ウルにある、女王の墓で発見

                された、黄金とラピスラズリで作られた

                牡牛の頭。紀元前2600−2300年


 1962年ヨルダンの砂漠で撮影されたアメリカ映画「アラビアのロレンス」が世界中でヒットした。複雑な性格のロレンスをピーター オトールが主演し、アリ役でオマーシャリフが登場する。この映画で描かれたように、アラブは第一次大戦中ドイツと同盟し参戦したオスマン トルコの支配下にあった。トマス エドワード ロレンスは、英国陸軍の情報将校で、トルコに対するに対するアラブの反乱を支えた。ロレンスはオックスフォード大学で、有名な考古学者であたホーガース博士の元でアラビア語と中東について学んだ。ファイサルと出会い、アラブのベドウィン族とともに、鉄道爆破などのゲリラ活動を行う。そしてトルコの要衝アカバを奪取し、1918年にはパレスチナのトルコ軍を打ち破って、ダマスカス、ベイルート、アレッポを占領した。


 大戦後イギリスはトルコの支配下にあったイラクをアラブのファイサル国王に統治させた。そのイラクにレオナード ウーリーを中心とした発掘調査団がイギリスから訪れ、4000年以上前の古代都市ウルの王家の墓を発見した。当時の模様を発掘調査団の一員であったマックスは、「死者のためのこの大きな竪穴式墳墓に入ったのは、不思議な瞬間でした。地面全体が黄金の絨毯で埋め尽くされていた。それは王が死んだ時に殺された女性を飾る黄金でできたブナの葉であった。」と語っていた。

墓には死んだ王族の遺骨とともに、大勢の従者や兵士が殉死させられ、埋葬されていた。それらは黄金と宝石で飾られ、その女性たちはそれぞれ楽器を抱え、美しい竪琴を手にしたいくつかの遺骨もあった、その竪琴には黄金とラピスラズリで作られた牡牛の頭の像があった。この王家の墓は世界最古の物語「ギルガメッシュ叙事詩」を残した古代シュメール人によって作られた。


 さらに、この発掘調査団によって紀元前2000年前後のウル第3王朝時代に建てられたジックラトが発見された。これは、メソポタミア人の神殿で階段ピラミッっドの形をしていて、この階段を登った所で神官が儀式を行った。


 このメソポタミアの地に紀元前1776年ごろにハムラビ法典が制定された。そして法典はバビロニアの社会秩序が普遍的で、永遠の正義の原理に根ざした、神々によって定められた物である。当時バビロンは世界最大の都市で、人口は100万人を超えていた。そしてメソポタミアの大半を支配していた。この法典により都市の秩序は保たれていた。その内容は、バビロンの法律と裁判の判決を集めたもので、「この地に正義を行き渡らせ、悪きものや邪なるものを廃し、強者が弱者を迫害するのを防ぐ」として300の判例が定型として示された。 眼には眼をの内容で、もし別の上層自由人の骨を折ったなら、そのものの骨も折られるものとする。など細かく規定されていた。


 そして、シユメール人は、紀元前300年から3500年の間に、記号を使って粘土板に大麦やその数を記録した。それから楔形文字に進化し、王は命令を出し、神官は神のお告げを記録し、人々は手紙を書いた。


 ハラリによれば、人類が文明をつくり、世界を征服したのは言葉を使って、大勢の人を結びつける才能があるからで、真実か否かではなく言葉による物語によって共同体がつくられ、神殿を作ったり、法制度を作り維持し、生活の規則、祝祭日を定めたりする。そのことによって共同体が小さな部族社会から、大きな豪族の支配する社会に、やがてそれらは統一されて帝国となる。


 これは、法律、貨幣、神々、国民といった人間社会のシステムに共通の共同の主観現象で、虚構や空想や集団の妄想によって大勢の人が協力し、これらが使われ歴史を動かす大きな要因となる。ハムラビ法典が作られた同じ古代バビロニアで紀元前3000年紀半ばに銀のシェケルという銀が貨幣として使われた。その後世界中で金は貨幣として使われ、物々交換に代わる流通の制度の中心になった。


 その後世界は貨幣を使った貿易を通じて、相互に繋がり、経済活動を行い、さまざまな経済学の理論が生まれた。アダムスミスの古典派経済、デビットリカードあるいは、その後のマルクス主義経済学、ケインズ経済学、ミルトン フリードマンの新自由主義などの経済学理論が次々と登場した。これらもやはりその時代の産物であり、共同主観によって成立している。



 神々の世界、宗教にも共同主観による人々の結びつきが見られ、小さなカルト集団は、物語を作り、それが次第に広がる。人間の脳の発達による言葉の発明、物語の想像は人々を結びつけ、それを信じ、話し言葉から、書くことによって記録され伝播しさらに広く遠く影響を及ぼし、信者を獲得し、やがてあるものは世界宗教になる。

実際のイエスは典型的なユダヤ教の伝道者で、説教をしたり病人を癒したりして少数の信奉者を獲得した。地方在住のほぼ無名の宗教指導者は死後に、天地を創造した宇宙の神が人間の姿をした物として偶像化され、世界中で信者を獲得し、世界中で25億人の人々にキリスト教は信じられている。同じようにイスラム教やヒンズー教、仏教も生まれ、信じられ、信者を獲得した。


 歴史上世界中でエジプトでもローマでも、中国、南アメリカなどでも国は生まれ、やがて神の国や帝国となり、栄枯盛衰を繰り返していた。20世紀には帝国間戦争が起こった。そして国家社会主義国や共産主義国家が誕生し消滅した。そして、先日まで、グローバル主義、自由な民主主義が世界史の勝者のように見えていた。今その秩序は崩壊しつつある。


2025/03/20

名探偵ポアロの大英帝国


  1890年アガサ ミラーはブナやニレ、セコイヤなど大きな木々の生い茂る庭を持つ、海辺のリゾート地アッシュフィールドの邸宅で生まれた。ビクトリア朝のイギリスは産業革命によって、生活は次第に変わり、都会の生活者は増え、かつての田園生活のような顔見知りでない隣人と生活する日々が始まった。



 1923年「スタイルズ荘の怪事件」初めてポアロを登場させる。第一次大戦時ドイツの攻撃から避難してきたベルギー人で、卵形の頭をした、おかしな口ひげを生やした小柄でおしゃれな、シャーロックホームズとは全く違った探偵であった。 その相棒へイスチングス大尉は第一次大戦で負傷した退役軍人で、旧友のジョンに招かれてスタイルズ荘を訪れた。ジョンの継母で館の主人のイングルソープ夫人が急死する。ポアロは彼の依頼を受け難事件を解決する。大邸宅の中で起こったストリキニーネによる殺人、邸宅に住む人々の見かけの印象と本当の姿、重大な手紙の発見。アガサは、怪奇なミステリーや冒険物語ではない、証拠と心理分析を論理的に分析する新しい推理小説をつくった。


  当時のイギリスの人にとって、第一次大戦は、ある朝突然起こった出来事だった。そして、多くのイギリスの若者は戦場に行き、30%の若者は戦死した。ドイツに占領されたベルギーからは100万人以上のベルギー人がイギリスに亡命してきた。イギリス国内でも上中流階級の若い女性たちも従軍看護婦として病院で戦病兵を看護し、アガサもこれに加わり、やがて薬剤部に配属されて薬の知識を学び、小説を書き始めた。スタイルズ荘の怪事件では、この薬剤知識が殺害の手段として大きな鍵を握っている。

 1923年に発売した第2作目の「ゴルフ場殺人事件」では、フランスのリゾート地ドービルで滞在中に、南米で事業を起こし、大成功を収めたポールルノーが殺害される。10年前の殺人事件に関係していた家族が近くに住んでいた。そして登場人物の様々な思いが絡み合い、真相は隠され、謎は深まる。ヘイスチングスの感情がらみの印象による推理や、フランス人警部の推測は外れ、、ポアロの感情や印象に惑わされない、、前頭葉の脳の働き、灰色の脳細胞による推理によって事実の糸のもつれを解きほぐし、事件は解明される。


 1926年「アクロイド殺し」を発表。ロンドンの郊外の田園、キングス アボットで引退したポアロはカボチャや野菜を育て、引退生活を楽しんでいた。その村で殺人事件が起きる。その街の有名な資産家アクロイドが殺された。疑われたのは義理の息子ラルフだった。アクロイド氏の姪でラルフの婚約者フローラに事件の解決を依頼される。アクロイドを殺した犯人は身近にいる意外な人物であった。


 アクロイド殺しの舞台となったキングスアボット村は、若者は都会に出て、未婚の女性や退役軍人はたくさんいる。村人たちの趣味と娯楽は、噂話である。イギリスのどこにでもあるような、ありふれた村、平穏な昔ながらの田園を舞台にしていた。イギリスの郊外は1902年ハワードが「明日の田園都市」で提案した都市と田園がよく調和したユートピア構想で、都市の近郊にありながら、近郊の美しい田園が残り自然が残る地域で、この都市がロンドン郊外に建設され始めた。当時、自然や歴史的環境を守る運動ナショナルトラスト運動が同時に起こっていた。


 1920年代は大戦後のマスコミ時代で、都市生活者や裕福になった大衆が大衆小説を求め、新聞の有名人のゴシップ記事を楽しんだ。そしてアガサクリスティーもまたそのゴシップ記事の対象になる。1926年アガサクリスティーは失踪し、記憶喪失状態で10日後ホテルに滞在しているところを発見される。


 回復したクリスティーは1928年にアーチーと離婚が成立し、一人娘のロザリンドは寄宿学校にいかせた。その年の秋、イラクのバグダッドに向かった。イスタンブールへオリエント急行に乗り、そこからシリアのダマスカスへ、そのダマスカスからバグダッドへは砂漠用のマイクロバスに乗って砂漠を横断して到着した。 1930年に再びこのメソポタミアの発掘調査の旅に加わった。そこで知り合った考古学者のマックスと再婚し、小説家としてクリスティーは黄金の30年代を迎える。その10年間で20の小説と3冊の短編集を出版し、世界中に読者を広げ、今でも人気の代表作を残した。

 1934年『オリエント急行殺人事件」1936年「メソポタミア殺人事件」1937年「ナイル殺人事件」などの代表作はアガサ クリスティーが中東旅行の時泊まった実在するホテルや実際乗った列車や、訪れた遺跡や街を物語の舞台とした。豪華列車オリエント急行、エジプトやメソポタミアといった中東のエキゾチックな情景の中での殺人事件。初期の作品のボアロが物理的な手がかりから事件を解決する物語から、殺人犯の複雑な性格と、心の奥の秘密、より真実に近い手がかりである心の動き、犯罪心理を描くようになった。


 イギリスは、第一次大戦後オスマントルコの支配下にあったアラブ世界、パレスチナとイラクを国際連盟から委任統治領として手に入れた。1932年にイラク王国となるも軍事や石油の採掘権はイギリスが担っていた。その統治下のイラクのユーフラテス川沿いの古代都市の遺跡ウルの発掘調査団がイギリスから訪れる。イラクでの遺跡発掘と油田の探索はイギリスの国策として進められた。そして中東の土地は旅行先として人気が出てきた。ドーバー海峡を超えて、オリエント急行に乗りトルコのイスタンブールに着く。バグダットへの道は砂漠の中を飛行機を誘導するために切り開かれた道路を使った。


 アガサクリスティーの小説が今でも読み続けられているのと同じように、第一次大戦中のイギリスの外交が現在まで続く中東混迷の原因になっている。パレスチナにユダヤ人国家をつくる、アラブ人国家を旧トルコ領につくる、旧トルコ領を英、仏、ロシアの3カ国で分割するという3つの秘密協定であった。









2025/02/24

田中角栄の列島改造と美濃部都政

  日本は第二次世界大戦後、1950年代に、荒廃した後進国として出発し、1960年代に中進国となり、1970年代に先進国の仲間入りした。 戦後世界はソ連とアメリカの二大陣営に分かれ対立していた。 1960年代後半から1970年にかけて、日本もその影響下、革新陣営に支持され、美濃部都政が始まり、学生運動も盛り上がった。美濃部都政は1967年(昭和42年)から始まり12年間続いた。


 美濃部亮吉氏は1904年美濃部達吉の長男として生まれ東京大学を卒業後、ナチス政権誕生前の1932年(昭和7年)5月にベルリンに到着、2年間のドイツ滞在中に「独裁制下のドイツ経済」を学会で発表した。「ナチスはあくまでも大資本の味方であるのだ。しかし中小商工業者の憤懣を何とかしてやらねばならない。そこでナチスは、ユダヤ人の官吏、弁護士、医者、芸術家のごとき最も弱いものをいじめることにした。ゲルマニアの文化をユダヤ人の手から奪ってゲルマニア人の手に委ねなければならないというのがそのための口実であった。」と書き、1938年(昭和13年)人民戦線事件で逮捕されるも終戦で、無罪となった。

 戦後、大学教授などを務め、1967年(昭和42年)に東京都知事選で初当選した。はじめての 革新都政となり、さまざまな政策を実行した。当時経済は成長し、公害は全国に広がり、社会の大問題となっていた。平均寿命は伸びてきたものの、いまだ高齢化社会ではなかった。医療費の無料化、高齢者の都営交通の無料化、公営ギャンブル廃止、歩行者天国の実施などその後の日本の自治体の政策を先取りし、当時は多くの支持を集めた。

 その後この美濃部都政に対して、高評価はあったものの、のちの東京都知事石原慎太郎は、「増税なきバラマキ政策を行うことで、東京都また日本に無償福祉ポピュリズムという悪しき影響を与えた。」と批判している。

 田中角栄氏は、1966年(昭和41年)2月から日経新聞で30回連載の私の履歴書を書いた。「齢いまだ50にもたらず、人生経験も浅い私は、自分の履歴を世に公表することが、何かしらはばかれて面映く、逡巡されるものがあった」で始まる生い立ちの記録で、雪深い新潟の貧しい生活、その後の東京での企業した生活、そして自らの関心のあることを綴った。そこには、人生の基本として、理念や理想は腹の足しにならぬという徹底したリアリズムの姿勢が貫かれている。そしてこの世代は第二次大戦で戦場で最も多くの戦死者を出している世代であった。

 田中角栄氏は1918年(大正7年)新潟県の現在の柏崎市で生まれる。15歳の時上京し20歳まで東京でくらし、19歳で独立して共栄建築事務所を開く。1938年(昭和13年)の暮れに盛岡24連隊に入隊する。中国大陸に出征し病気で療養後昭和16年除隊する。1943年(昭和18年)田中土建工業株式会社を起こす。戦後1947年(昭和22年)初当選し政治家となり、若くして頭角を表し、多くの大臣を経験する。

 田中角栄政権の誕生は、1972年(昭和47年)7月5日。その前任の佐藤栄作内閣は8年間の長期政権で、政権交代後に、三角大福と言われた、三木、田中、大平、福田の4人で争われ、田中角栄首相が誕生した。

 その年に発売された日本列島改造論は空前の売れ行きを示した。当時日本は、公害問題と、都市への人口一極集中が進み、過密過疎問題が政治課題であった。田中角栄はその序文で「昭和30年代にはじまった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業、人口が過度集中し、わが国は世界に類例をみない高度社会を形成するにいたった」が、「明治100年(1968年)をひとつのフシ目にして、都市集中のメリットは、今明らかにデメリットへ変わった」。「過密と過疎の弊害の同時解消」のためには「都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速道路自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすることができる。」

 当時の自民党は経済成長を進め、その果実を弱者にも政治的に配分する、地方の農業保護、公共事業に予算を配分して政権を維持していた。田中内閣はその政権下で美濃部都政と同じように老人医療費無料化を行い、福祉元年として評価は高かった。

 しかし、1974年(昭和49年)第4次中東戦争が起こり、原油価格は5倍になり狂乱物価と呼ばれる物価の上昇で、日本の高度成長は終焉した。同じ年、文藝春秋で田中金脈が追及され、首相を辞任した。理念より利益、文化より生活利便性の向上を信条にして首相の座を金と人心掌握の力で手に入れたことに対して当時から批判はあった。

 1970年、右派の論客三島由紀夫は「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ・・・ 」「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と警告した。

 50年経った、今の日本は、政治だけでなく、経済もまた、大国から脱落しつつあるように見える。








2025/02/16

民主主義から専制主義に 19世紀アメリカ政治と小説 

 


 1775年アメリカは独立宣言をして、世界で最初の民主主義国家となった。そして1823年 ジェームス モンロー大統領は米国とヨーロッパが互いに干渉しない外交方針、モンロー宣言を出した。

 1835年、フランス人の貴族トクビルはアメリカを旅行し、30歳の時「アメリカのデモクラシーについて」を書く。イギリスから独立したアメリカの特徴をヨーロッパの階級社会と比較して、アメリカではすべての階層が平等である。市民社会、民衆が意見をつくり、感情を生み、風習を作る。アメリカにおいては多数が万能である。それは立法者や行政府においてもそれが見られる。さらに裁判、陪審員制度にもそれが見られる。

 17世紀の初め、アメリカに定住しようとしてヨーロッパ大陸から渡米した移住者は、デモクラシーの原理を新世界のアメリカ東海岸の岸辺で創り出し、やがて民主主義はアメリカ全土で定着した。しかしその弱点として、トクビルは多数決による多数派の独占を挙げている。アメリカにおいては多数派が思想にまで影響を持ち、思想に厳しい枠をはめ、少数派は発言の場さえ無い。アメリカが偉大な作家を未だもたない。その理由はほかでもない。精神の自由がなくては文学の天才は存在しえない。その精神の自由がアメリカにはないからであると考えた。


 その後、アメリカでも新たな小説家、緋文字のホーソンと白鯨のメルヴィルが登場した。 白鯨の中で「ニューベット フォードで目撃されるのは、街角でおしゃべりしている本物の人食い人種、つまり正真正銘の蛮人なのであり、フィジー、トンガ、エロマンゴ、パンナグ、ブライグなどの南太平洋島々から来た連中、それに通りを傍若無人に闊歩する捕鯨船あがりの見本のような粗野な連中にもお目にかかるだろう」また「1833年8月3日、日本沿岸において、ボートの舳先にありしところを、マッコウ鯨に襲われて落命す。その残されたる妻、思い出のためこの碑を建立す。」と当時日本沿岸にも捕鯨船は来ていた様子をメルヴィルは書いている。。

 1920年の初めまでは、ほぼすべての国から来た人々はアメリカの市民権を取ることができた。その後も、アメリへの移民は続き、1850年代には、ヨーロッパの飢饉や政情不安定のため、大量の移民がやってきた。移民を受け入れたアメリカには、西部に広大な土地があり、都市部では工業も成長し、人手不足を補うための機械の設備投資を行い新興の工業国になっていった。当時すでにGDPはドイツやロシア追い越し、フランスに迫っていた。 


 メルヴィルはニューヨークに生まれ、船乗りとなってポリネシアなどの国々を航海する、その体験から捕鯨船に乗った経験を題材にして、巨大な白い鯨をモデルに海洋冒険の物語を描き始めた。1950年ホーソンに出逢い、緋文字で有名な作家ホーソンの影響を受け、ピューリタンの思想を、白鯨を象徴とした超越への志向を主題とした宗教的小説、象徴主義の物語として白鯨を完成させた。


1861年南北戦争が勃発し、工業力と人口に勝る北軍が勝利した。そして1865年の奴隷解放宣言で黒人奴隷は解放された。


 マーク トウェインは当時南部に属していたミズリー州に生まれ、南北戦争では南軍に参加した。1865年「その名も高きキャラヴェーラス郡の跳び蛙」をアメリカの言葉で書いた最初の小説を発表した。それ以前のアメリカ小説はすべてディケンズ風のイギリス風英語で書かれていた。1876年に「トムソーヤの冒険」をミシシッピー川を舞台に創作し、1885年に「ハックルベリーフィンの冒険」は黒人奴隷ジムを救う、大冒険物語でアメリカの文学の代表作となった。

 19世紀の後半になると、アメリカは軍事力を増強させ、帝国列強の覇権争いに加わった。1898年マッキンリー大統領の時代スペインと戦争を起こし、独立したキューバを保護国とし、フィリピン、グアム島、プエルトリコを手にいれハワイを併合した。そして、パナマ運河に対する全面的支配権を要求し、カナダの要求を押し切ってアラスカの国境を変更した。1899年には、ヘイ国務長官がは中国に対する門戸開放宣言を行い、中国での権益に関与を表明し、1900年義和団の乱に2500人のアメリカ軍を派遣し、中国にも権益を拡張していった。義和団の乱で派兵したのはアメリカの他、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリアハンガリー帝国、日本帝国、イタリア王国、イギリス、フランスで、やがてこれらの国の間で帝国間の戦争を引き起こす。


 製鉄業で巨万の富を得たカーネギーは1901年J.P.モルガンの巨大企業である

 その後、アメリカでも新たな小説家、緋文字のホーソンと白鯨のメルヴィルが登場した。 白鯨の中で「ニューベット フォードで目撃されるのは、街角でおしゃべりしている本物の人食い人種、つまり正真正銘の蛮人なのであり、フィジー、トンガ、エロマンゴ、パンナグ、ブライグなどの南太平洋島々から来た連中、それに通りを傍若無人に闊歩する捕鯨船あがりの見本のような粗野な連中にもお目にかかるだろう」また「1833年8月3日、日本沿岸において、ボートの舳先にありしところを、マッコウ鯨に襲われて落命す。その残されたる妻、思い出のためこの碑を建立す。」と当時日本沿岸にも捕鯨船は来ていた様子をメルヴィルは書いている。。

 1920年の初めまでは、ほぼすべての国から来た人々はアメリカの市民権を取ることができた。その後も、アメリへの移民は続き、1850年代には、ヨーロッパの飢饉や政情不安定のため、大量の移民がやってきた。移民を受け入れたアメリカには、西部に広大な土地があり、都市部では工業も成長し、人手不足を補うための機械の設備投資を行い新興の工業国になっていった。当時すでにGDPはドイツやロシア追い越し、フランスに迫っていた。 


 メルヴィルはニューヨークに生まれ、船乗りとなってポリネシアなどの国々を航海する、その体験から捕鯨船に乗った経験を題材にして、巨大な白い鯨をモデルに海洋冒険の物語を描き始めた。1950年ホーソンに出逢い、緋文字で有名な作家ホーソンの影響を受け、ピューリタンの思想を、白鯨を象徴とした超越への志向を主題とした宗教的小説、象徴主義の物語として白鯨を完成させた。


1861年南北戦争が勃発し、工業力と人口に勝る北軍が勝利した。そして1865年の奴隷解放宣言で黒人奴隷は解放された。


 マーク トウェインは当時南部に属していたミズリー州に生まれ、南北戦争では南軍に参加した。1865年「その名も高きキャラヴェーラス郡の跳び蛙」をアメリカの言葉で書いた最初の小説を発表した。それ以前のアメリカ小説はすべてディケンズ風のイギリス風英語で書かれていた。1876年に「トムソーヤの冒険」をミシシッピー川を舞台に創作し、1885年に「ハックルベリーフィンの冒険」は黒人奴隷ジムを救う、大冒険物語でアメリカの文学の代表作となった。

 19世紀の後半になると、アメリカは軍事力を増強させ、帝国列強の覇権争いに加わった。1898年マッキンリー大統領の時代スペインと戦争を起こし、独立したキューバを保護国とし、フィリピン、グアム島、プエルトリコを手にいれハワイを併合した。そして、パナマ運河に対する全面的支配権を要求し、カナダの要求を押し切ってアラスカの国境を変更した。1899年には、ヘイ国務長官がは中国に対する門戸開放宣言を行い、中国での権益に関与を表明し、1900年義和団の乱に2500人のアメリカ軍を派遣し、中国にも権益を拡張していった。義和団の乱で派兵したのはアメリカの他、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリアハンガリー帝国、日本帝国、イタリア王国、イギリス、フランスで、やがてこれらの国の間で帝国間の戦争を引き起こす。


 製鉄業で巨万の富を得たカーネギーは1901年J.P.モルガンの巨大企業であるUSスチール社に自分の製鋼所を売却した、当時この製鋼所一社でイギリス全体の鉄鋼全体を上回る量を生産していた。


マッキンリー大統領が暗殺され、史上最年少でセオドア ローズヴェルトが大統領になった。ローズヴェルトの海外への領土拡張政策(Big  Stick  Diplomacy)に対して、アメリカ各地で反対する運動が起きた。カーネギーのような実業家や、元大統領のグローバー・クリーブランドともにマーク・トウェインは反帝国主義連盟に参加した。そしてその運動の中心となって、反帝国主義連盟で副会長になり、アメリカ政府の帝国主義政策を批判した。


 1901年To the    Person Sitting   in Darkness の中で義和団事件の後アメント牧師をキリスト教布教のために中国に派遣し、高額の賠賞金の請求をしたことを批判USスチール社に自分の製鋼所を売却した、当時この製鋼所一社でイギリス全体の鉄鋼全体を上回る量を生産していた。


マッキンリー大統領が暗殺され、史上最年少でセオドア ローズヴェルトが大統領になった。ローズヴェルトの海外への領土拡張政策(Big  Stick  Diplomacy)に対して、アメリカ各地で反対する運動が起きた。カーネギーのような実業家や、元大統領のグローバー・クリーブランドともにマーク・トウェインは反帝国主義連盟に参加した。そしてその運動の中心となって、反帝国主義連盟で副会長になり、アメリカ政府の帝国主義政策を批判した。


 1901年To the    Person Sitting   in Darkness の中で義和団事件の後アメント牧師をキリスト教布教のために中国に派遣し、高額の賠賞金の請求をしたことを批判している。「義和団は愛国者だ。彼らは他国民の国よりも自国を愛している。彼の成功を祈る」と書き、フィリピンについては「我々はフィリピンに征服しに行ったのであり、救済しにいったのではない。」とマーク トウェインは書いている。


 1963年製作されたアメリカ映画「北京の55日」はチャールトンヘストンが主演し、日本陸軍の柴五郎中佐役で伊丹十三が出演している。この当時のハリウッドの世界観で義和団の乱を描いている。義和団の乱に対して8帝国が出兵し、中国への侵出を狙った。やがてこれらの帝国の間の戦争が起こり、第一次世界大戦へと世界は向かっていった。


2025/02/02

19世紀 チャールズ ディケンズ と アラン ポーの暮らした時代

  フランス革命とアメリカ独立戦争ののち、ヨーロッパではナポレオンも失脚し、5大国で勢力のバランスが保たれた。一方海上では、海軍力に勝るイギリスが覇権を確立し、北アメリカ、ラテンアメリカ、インド、東洋などの市場が急激に成長し、商業取引、運輸、保険、銀行などの経済活動が活発となり、ロンドンは世界の新しい金融の中心地となり、莫大な富を独占し覇権国としての地位を確立した。


 狩猟世界から、穀物栽培の定住社会に変わったのと同じくらい、人々の生活を根本から変えた産業革命は徐々に起きた。生産性の飛躍的増加をもたらした産業革命以前はヨーロッパのアジア地域も工業生産ではそれほどの差は見られなかった。1800年の世界に占める工業生産の割合は、ヨーロッパ28.1%、イギリス4.3%、中国32.8%、インド19.7%であった。それが1900年にはヨーロッパ62.0%、イギリス18.5% 中国6.2%インド1.7%となった。イギリスを先頭に工業生産はヨーロッパ、アメリカで増加し、一方、インドや中国は工業化された綿製品が大量に流入し、地域経済は縮小した。一人当たりの工業化水準は第三世界ではヨーロッパの18分の1、イギリスの50分の1になった。1947年 TS アシュトンは「今日、インドや中国の平原に住む人々は災害に苦しみ、飢えて、毎日彼らと共に重労働に励み、共に眠っている家畜と変わりのないような生活を送っている。こんなアジア的な暮らしと機械化の遅れによる悲惨な状態は、産業革命を経ることなく人口ばかりが増大してしまった国の人々の多くに共通するものである。」


 1812年チャールズディケンズは海軍省経理部事務官の息子として生まれる。12歳の時父親が債務不履行に陥り、極貧生活に陥る。その後作家の道を目指し、

フリーランスの記者となり産業革命後のロンドン庶民の生活や情景を描いた「ボズのスケッチ」で作家として出発し、26歳の時、連載小説「オリバーツイスト」で流行作家となった。孤児のオリーバーの「お願いです、僕はもっと食べたいんです。」「神様、どうぞお恵みを、僕たちみんなに。」当時ディケンズの生活していたロンドンは拡張を続け、1830年に鉄道が開通する。多くの小説でこの時代のイギリスの様子が描かれ、当時の生活がよく分かる。

ディケンズは1842年半年のアメリカ力に出発する、そしてエドガーアランポーと会っている。当時アメリカでも人気のあった作家、チャールス ディケンズはアメリカを新聞社の企画で訪問。そして、。エドガーアランポーは その当時リッチモンドで生活中で、ディケンズに手紙を書いて、2人きりで面会し、話すことが実現し、2人は意気投合した。ディケンズは、翌1843年クリスマス向けの短い読み物「クリスマス キャロル」では守銭奴スクルージやティム坊やを登場させ、「それはすべての時代の中で最も良い時代でもあれば、すべての時代の中で最も悪い時代であった。」書き出しのフランス革命を題材とした二都物語や、「大いなる遺産」のミス ハヴィシャムを創造した。ディケンズの生活した時代は世界の覇権国イギリスの最盛期の時代であった。


 エドガーアランポーは、1809年生まれる。3歳でイングランド生まれで女優の母親は亡くなり、父親もなく、孤児になり、他家で養育され、その複雑な生い立ちが恐怖小説を生み出した。南北戦争前のアメリカ南部の小説家としてマークトウェインとともにアメリカ小説の源流を作った。ポーはアメリカにおいて、最初は南部の教養ある文人としてロマン主義の詩を発表したり評論を書いていた。その後、ミステリーや探偵、冒険など大衆文化としての小説を多く発表するも、当時は米国文学の主流とはみなされなかった。


 アメリカは1816年の人口は850万人、1860年には3140万人に増加し、多くのひとは農場を持ち、あるいは成長する都市に住んでいた。他国に比較して、生活水準も高く生産高も多かった。そして賃金もヨーロッパよりも30%ほど高く、1850年代にはヨーロッパから大量の移民が入ってきた。19世紀前半はポテト飢饉でアイルランドから、また政治経済の混乱からドイツや北欧、そして19世紀の後半からはイタリアなどの南欧そしてロシアなどの北欧さらには中国などからの移民が増えた。1861年には南北戦争が勃発した。この当時の経済はドイツやロシアを上回り、経済大国になっていた。対外的には1803年にフランスからルイジアナを購入、スペインからフロリダを獲得、テキサス、カルフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコをメキシコから編入。1823年モンロー主義を宣言し、アメリカ大陸へのヨーロッパの関与を禁止した。


 最初の頃、国内よりむしろフランスで認められ、象徴派の詩人たちに影響を与えた。1841年近代推理小説の第一作目となる「モルグ街の殺人」で探偵C オーギュスト デュパンを登場させ、パリの親子の不思議な、奇怪な殺人事件を発表し、それは、その後のシャーロックホームズなど探偵小説のスタイルにつながる。

 1839年に「アッシャー家の崩壊」、1843年「黒猫」などの恐怖小説を発表した。「アッシャー家の崩壊」は病んだ友達の最後を看取る男の物語。 「黒猫」は人のこころに住む動物的恐怖心と不安、残虐性を描く。 1845年発表の詩「大鴉」もまたカラスの喋る言葉によって主人公が狂気に陥る物語。それがフランス象徴主義に大きな影響を与えた


19世紀ヴィクトリア朝の時代、産業革命で成功したイギリスが世界を制覇した。その頃から、領土を拡張し産業革命による技術を使って21世紀の覇者になるアメリカは工業力を急速に高めていった。19世紀、経済成長と技術革新が世界の覇権国を決めた。


2025/01/12

日本アニメとアメリカ文化 ディズニーランドとUSJ 

 


 19世紀、ドイツの言語学者グリム兄弟が、ドイツの古くからの民話や伝説を集めて編集した子供と家庭のための童話集を初版を1812年に出版した。1857年の第7版で世界中で知られる童話は完成した。白雪姫やシンデレラ、眠れる森の美女、ラプンチェルなどが収録されていた。


 ワーグナーは楽劇「トリスタンとイゾルデ」や「ニューベルンゲンの指輪」を完成させ、その内容は19世紀の代表作となった。自然主義の、時代を超えた理想郷への憧れ、浪漫主義の作品で、芸術が人生の全てである、この芸術に触れている時だけが生きているに値する時間である、この芸術の他にある人生は特に重要ではないと言う認識のもとに作られた。フランス印象派のモネやルノアールの作品、人生にはあまりにもうんざりさせられることが多いから私たちはそれとは別のものを作り出すしかないと言う絵画に対する姿勢の対極にあった。それは人生全体の芸術化を目指した。この作品に対してボドレールは人工天国と名付けた。 


 バイエルン国王ルードヴィッヒII世はワーグナーを熱烈に支援した。ルードヴィッヒII世の最も有名な城、リンダーホーフ城内の人造洞窟はワーグナーのオペラ「タンホイザー」の曲をモチーフにして作られ、内部は人工的に作られた石灰岩で、幻想的に造形され、洞窟内には人工の湖があり、ルートヴィッヒII世は小舟に乗りながらワーグナーの世界を過ごした。 ルートヴィヒII世のもう一つ有名なノイシュヴァンシュタイン城 はアルプスの山中に建設された城で、内装にはタンホイザーやローエングリーンの世界、中世の騎士伝説や神話を描いた壁画が施されている。


 1901年シカゴで生まれたウオルト ディズニーは1920年に最初のアニメーション映画を仕上げた。1分ほどの短いコマーシャル映画で、その後ハリウッドでアニメーション映画「しあわせウサギのオズワルド」で大成功する。そして1928年に「蒸気船ウィリー」でミッキーマウスが誕生した。その後1937年に長編アニメ「白雪姫」をつくり多くの観客を集めた。白雪姫の原作はグリム童話に収められていた物語で、シャルル ペローのシンデレラや眠れる森の美女などヨーロッパ各国の民話や物語を題材にしたアニメーション映画を続々と公開され、ピノキオ、ピーターパン、や不思議の国のアリスはヨロッパの作家の小説をもとにしてアニメーション化された。ピノキオやグリム童話の怖い物語は、アメリカではウオルト ディズニーによって、ヨーロッパ各国の歴史から生まれる重々しい暗さを切り離し、綺麗で、夢のあるファンタジーの世界に生まれ変わった。


 1955年カルフォルニア州アナハイムにディズニーランドが造られた。それは空想の空間であり、現実とは離れたファンタジーの世界をヴァーチャルではない遊園地の中に創り出した。母親の影響か、ルートヴィヒII世の最も有名なノイシュヴァンシュタイン城 はディズニーランドの「シンデレラ城」となり、やはりルードヴィッヒII世の人工の洞窟に似た世界を人工の岩や石で作り、非現実の世界をディズニーランドの中に創り上げた。。


 日本は江戸時代が260年間続き、その間国内は平和で、文化が成熟し、特に文化文政の時代、身分に関係なく自らの表現をしたい人々は集まって狂歌や俳句や川柳を楽しんだ。子供の絵本赤本と並んで、黄表紙などの庶民向けの漫画絵本が数多く発行された。狂歌では太田南畝が活躍し、山東京伝の艶二郎は当時の人気キャラクターとなった。江戸のサブカルチャー、浮世絵や俳句は海外でも評価され印象派の絵画に大きな影響を与えた。


 明治維新で江戸文化は否定され、日本にヨーロッパの新たな政治システムが導入され、ヨーロッパ文化である絵画や小説、思想そして科学技術が取り入れられて、文明国を目指した。 戦後、ソフトパワーとしてのマンガや映画やエンターテイメントを生み出す力によってアメリカ文化は世界に広がっていった。そして日本にも、ディズニー漫画が輸入され1950年代にミッキーマウスやドナルドダックは子供達の本で紹介される。ヨーロッパの歴史から生まれた童話が、アニメーション映画ではおとぎの国の物語となり、アメリカ文化の代表として日本でも人気を得た。


 戦後の日本では、1950年代から60年代は少年漫画の時代で、その代表、手塚治虫の漫画もこの頃から人気を得た。その後60年代にはアニメーションをつくり、1963年にモノクロテレビアニメ鉄腕アトムをつくり、多くの映画作品で日本のサブカルチャーの中心を占めるようになった。1950年代、江戸時代とおなじように多くの若者は、大衆のための表現手段として漫画のストーリーを考え漫画を描いた。その後、漫画家から小説家になったり映画に進出したりして、20世紀の後半にかけ日本文化全体に大きな影響を及ぼしていった。1985年ファミコンにマリオブラザーズが登場する。風の谷のナウシカにも似た王国の物語でゲームによりさらに楽しみは進化し、マリオやクッパなど多くの人気キャラクターを生み出し、世界中に広がり、アニメ映画にもなった。


 ウオルト ディズニーは子供たちに夢を与え、安全で楽しいテーマパーク、物語や映画を再現する人工の国としてディズニーランドを構想した。そして、最初に1955年カルフォルニア州のアナハイムにその夢を実現した遊園地ディズニーランドを建設し、その後フロリダにも造られた。日本では幕張に1983年東京ディズニーリゾートができ、その後ディズニーシーかでき、ホテルと一体化し日本化した新しい世界を創り出した。ヨーロッパにはディズニーランド パリが、そして中国には香港と上海の2か所にディズニー リゾートができた。


 アメリカ映画のテーマパークUSJもまた、アジアに進出した。日本ユニーバーサルスタジオジャパンは日本のワンピースなどのアニメや スーパーマリオ やドンキーコング、ゲームの世界を取り込んでジャポニズムUSJとなってきた。そして北京やシンガポールなどにもユニバーサルスタジオができ拡張され、リゾート地として多くの人々の人気を呼んでいる。


 ディズニーランドは、その空間が子供たちのこころに夢をもたらし、大人たちにも幸福な瞬間が体験できる。USJはスリルと冒険と懐かしいキャラクターに会える、特別な場所になった。この絶大たる人気の秘密は、これらの世界が人の脳のオキシトシン、アドレナリンやエンドルフィンに働きかけているからかもしれません。

2024/12/31

無意識の世界 シュールレアリズム イド



  100年前の1924年フランスの詩人アンドレ ブルトンがシュールレアリズム宣言を出した。目に見える現実は仮想のもので、夢や幻想との境界は明らかでない。その潜在する無意識の世界や意識下の夢の世界を表現するシュールレアリズムが生まれた。

 第一次世界大戦は科学の進歩で飛行機や、戦車、毒ガスが使われ多くの死者を出した。既存の文明は崩壊し、既成の価値観を根底から覆した。そして世界を新たにどのように捉えるかが問題となった。今まで信じられていた西欧の近代合理主義ではなく、合理主義や功利主義から離れた何ものか、夢と現実を融合させ、超現実(シュール レアリズム)をつくりだすことによって理性を乗り越える芸術を目指した。


 形而上絵画と名付けたキリコの作品は、イタリアの夕暮れの広場の何気ない風景に非現実的な空間を描き出した。不安定で不安な感覚を与える「バラ色の塔のある広場」。左右の建物の、消失点が違ったり、人や像の影が現実とは異なる「通りの神秘と憂鬱」。自然な情景の中の、不自然な影や形、この絵の中の非合理性が脳内の記憶を混乱させ、不安な感情を引き起こす絵画を産みだした。その絵の中から隠された形而上の現実を表現しようとして、のちのエルンストなどに影響を与えた。エルンストは初期のコラージュ作品から「家庭の天使」などのシュールレアリズムの代表的作品を残し、 ダリはアンダルシアの犬の題名の短編映画を制作した。そのシーンは説明不能であるが深くこころを揺さぶる光景を映画にしたと語ったように、奇妙な非合理的な不気味な世界を描いた。ダリはやがてその奇妙な生活と共に、超現実主義の作品「記憶の固執」夢や曲がる空間を曲がった時計で表し、シュールレアリズムを世界中に広め、時代の寵児となる。アン マグリットもまた写実的な手法を使って、現実にはありえない幻想的世界を作り出した。


 人間は合理的な存在で、自分の考えていることを把握していて、自分の行動に責任が持てるという世界観があった。1914年始まった第一次世界大戦は、この人間は合理主義的な生き物であるという認識を根底から崩した。パリ大学の医学生であったブルトンが第一次大戦で東部戦線に動員されはじめてフロイト理論を知った。  フロイトは人の心、精神の問題を哲学ではなく心理学で解釈し精神分析学を始めた。人間行動の多くは無意識の領域が支配している。心には相互に働く3つの精神的要素がある1番目は自我(エゴ)、2番目が」超自我(スーパーエゴ)、そして第3ばんめには本能的衝動の源(イド)、エゴは意識的な部分で外の感覚を受け取り、外の世界と触れ合う。またエゴはすぐに意識へとアクセスできる無意識的なな前意識も含まれる。イドは性的本能や攻撃的本能を作り出す。そしスーパーエゴが精神における倫理的価値観の表れで、エゴに影響を与え、エゴをコントロールする。そしてエゴを脅かしたり合理的思考を妨げるイドの生み出す本能的な衝動を抑制する。

 そして第一次大戦後、人間の持つ攻撃性を目の当たりにして、人の心の働きは、生まれつき備わった2つの本能の相互作用によって起きると仮定した。一つは生の本能(エロス)であり、もう一つは死の本能(タナトス)で生の本能は種の保存や性、愛、摂食の本能を含み、死の本能は攻撃や絶望である。

 シュールレアリズムはブルトンを代表とする芸術と思想の変革運動で、想像力の自由と、夢と狂気の解放を主張した。フロイトの描いた、人の無意識下の夢や衝動を理解して、合理主義、功利主義の価値観から決別したこの運動はフランスから、ロンドン、プラハそして日本へと影響力は広がっていった。日本の絵画もその影響を受けて、古賀春江が「海」や「窓外の化粧」などを創作した。


透明なる鋭い水色。藍。紫。

見透される現実。陸地は海の中にある。

すべる物体。海水。潜水艦。帆前船。

北緯五十度。

海水衣の女。物の凡てを海の魚族に繋ぐもの。

萌える新しい匂いの海藻。

独逸最新式潜水艦の鋼鉄製部の中で、

艦長は鳩のような鳥を愛したかも知れない。

聴音器に突きあたる直線的な音。

モーターは廻る。廻る。

起重機の風の中の顔。

魚等は彼等の進路を図る  彼等は空虚の距離を充填するだろう

双眼鏡を取り給え。地球はぐるっと廻って全景を見透される。 

                             海



 

 映画や写真の繰り返し可能な複製技術によって、芸術作品のオリジナリティーも、複製可能な画像に変わり、一部の階級の独占物であった芸術は大衆のものとなった。さらに、この時代に新しいメディアとしてのラジオが誕生した。当初は「ラジオはたて続けにもろもろの事物や出来事をのべつもなく並べ立てるから、自らの連続性を考える余裕さえない。持続しているのはただラジオの間断のない騒音だけである。」と批判された。新しいメディアとしてラジオが登場した。そして同時に大衆マスとかマスメディアの言葉が1923年アメリカで登場した。 日本では1925年、普通選挙が開始された。日本にも大衆が生まれ、マスメディアが誕生した。このマスメディアを使って、大衆は動員され第二次大戦へと突き進む。そしてシュールレアリズム運動も政治化し、ファシズムに敗北する。


 100年前、20世紀の初頭、西欧合理主義の崩壊に対して、過去の伝統を破壊する芸術運動としてのアヴァンギャルド、ダダやシュールレアリズムが起こった。第二次大戦後、文明は理性や技術の力でその困難性を克服し、発展する。そして、民主主義は勝利して世界は平和になる。そして世界は資本主義のもと無限に発展すると思われた。しかしこれらの技術の進歩とカタストロフィーは同じコインの表と裏であり、フロイトの唱えた人間の本性である本能的衝動(イド)の問題が100年の時空を超えて再び立ち現れてきた。