2019/01/23

突破もの 平賀源内


  


 近世初期の思想界を独占していた儒教とりわけ朱子学は、時代とともに、社会に合わなくなり次第に崩れようとしていた。その時代に本草学者、物理学者、文人戯作者、そして加茂馬淵の門人でもあったリベルタン(自由主義者)、時代の先駆け(先走り)平賀源内は生まれた。

 18世紀になると、国学が起こり、蘭学や洋学が江戸の世界に入ってくる。 享保の改革で幕府は実学にかぎって蘭学を認め、西洋の学問として蘭学が盛んになり、長崎でオランダの学問を学ぶ人が増えてきた。平賀源内も長崎に留学し洋画や本草学、今で言う博物学を学ぶ。 国学は荷田春漫が、古典を研究することによって古代の道、すなわち「から心」、「仏心」によって歪められない以前の純粋な日本の古い道を求める。加茂馬淵と本居宣長によって完成の域に達する。平賀源内も、加茂真淵のもとで国学を学ぶ。

 1763年(宝暦13年)36才の時、平賀源内最初の小説「根南志具佐」を天竺浪人の名前で出版する。 初めての江戸の言葉で書かれた江戸文学で、歌舞伎の女形の溺死を題材にした。閻魔大王が歌舞伎俳優に惚れ、地獄に連れてくるように竜王に命じ、その命を受け、一匹の河童が若侍に化けてこの世に派遣される。江戸見聞をする蜆とさざえ、鯨と海老は江戸の下町を見て聞いて、江戸の活気を、江戸のくらし、風俗をテンポ良く語る。
 序文には「其詞は違へども 、食うふて糞して寝て起きて、 死んで仕舞ふ命とは知りながら、めったに金を欲しがる人情は、唐も大倭も、昔も今も易ことなし。」で始まる。単純な閻魔大王の恋物語の中に、窮屈な儒教を笑い飛ばし、上方守旧派を打ち負かす、文化の力をつけた江戸の代表作となる。この一作が、、戯れに世を諷する江戸戯作のはじまりの作品で、平賀源内は四国の讃岐から上京して数年で、江戸の文化の発信者、江戸の流行作家となる。

 続いて、洒落精神満載の世界諸国巡り「風流志道軒」を出版する。この中で、浅之進は、唐人 たちのため不二山の張り抜き細工を作って見せてやろうと、紙とのりを積んだ大船30万艘引いて、 唐土の海へこぎ出す。これを阻止しようと日本国の神々が集まり重要会議を開く「一族みんな出張してしまえば、風邪を引くものが一人もいなくなっちまって医者が困りはしないだろうか」と風の神が心配する。「 どうせ八百屋が浅漬宅庵になり、魚屋が稲田安康に変身し、餅屋は佐藤養閑と改名し あめ売りが雨井堯仙と名乗って医者をやっているようなものだ。はやらなくなったら元の商売に戻るだけさ」と八百よろずの神が駄洒落をいう

 そして浅之進は小人国から長脚国へ、長脚国から手長国、そして蝦夷、琉球、あるめにあ、天竺、阿蘭陀と世界中を仙人によって授けられた羽扇一本で飛び回る。



 風流志道軒伝の中で、時代に合わなくなった儒教を批判して「唐は唐、日本は日本、昔は昔、今は今なり。古代といえども礼楽は同じからず      聖人の政なりとて、井田の法を行ば、百姓どもには安本丹(あんぽんたん)の親玉にせられなん」と「主の天下をひったくる不らち千万なる国ゆえ、聖人出て教給ふ。日本は自然に仁義を守る国故、聖人出ずしても太平をなす。」と述べてその教条主義を批判した。


 平賀源内は1728年(享保13年)讃岐の生まれ。22才の時、高松藩御蔵番の役職をつぐ。
1752年(宝暦2年)から1年間長崎に、本草学研究の目的で行く。家督を妹夫婦に譲って、1756年(宝暦6年)28才で江戸に出て、本草学の物産会である薬品会を開き、1763年には加茂馬淵の門人になる。この年に小説「根南志具佐」と「風流志道軒伝」を出版する。

 その後、浄瑠璃の原作者となり、また各地の鉱山調査を行い、江戸の神田では大田南畝や画家晴信などの狂歌仲間と生活し、根無草後編も書いていた。そして才能のある千里の駒もよき伯楽にも巡りあえずと嘆息し、自らを小間物屋と称した。

     かゝる時何と千里のこまものや伯楽もなしこづかひもなし

1770年(明和7年)かねてからの夢を実現するため、時の権力者田沼意次から「阿蘭陀翻訳御用」の名義をもらって、阿蘭陀本草翻訳のために再び長崎に旅立った。その間に、杉田玄白は前野良沢らと苦労の末阿蘭陀語を翻訳し1774年(安永3年)に解体新書が刊行された。その表紙や挿画は源内が秋田から連れてきた若い画家小田野直武が描く。しかし日本物産大系を翻訳出版する願いは果たせず、友である玄白に先を越されたことになる。

 源内は2年後、長崎から持ち帰った壊れた機械エレキテルの復元に成功し、多くの見物客に人気を博した。 
 同じ年「天狗髑髏鑑定縁起」を出版。弟子の大場豊水が川から変な死骸の頭を、薬品鑑定をしている源内と門人たちの元に運び込む。これを見て源内「これ天狗のしゃれこうべなり」と鑑定する物語で、医者は陳皮も知らずといってからかい、既成の学問を笑い飛ばした。
 「牛の糞やら胡麻味噌やら、やみらみつちやの流渡り、海参(なまこ)の尻やら頭やら、蟹の竪やら横道やら、にうががにうへとちりあべこべ銭あるものは利口に見え、出る杭は打たるゝ習ひ、天狗のあたまの真偽を論じ、時を移せば腹がへり、日が重なれば店賃がふえ、月が延びれば質が流るゝ。」と源内節満開。

 江戸時代のように、崇高なもの、超越的なものより、卑近な日常と現世主義の濃厚な文化のもとでは、儒教を揶揄したパロディーの力は時代を変える方向より、手放しの泰平の世の賛美、現状肯定に向かう。そして後年の源内の作品を、太田南畝は編集した風来小品集「飛花落葉」の序文で「憤激と自棄ないまぜの文章」と書いているように、膨大な未完の構想と現実の間で、 人気がありながら、世間から理解されず、思いを実現できない生活を送っていた。

 1779年(安永8年)ささいなことで人を殺傷し、入獄。その年52才で獄死する。

 平賀源内、大田南畝、山東京伝と連なる3人の突破者の時代は、江戸の文化を新しく変え、豊かなものにした。 18世紀はじめ、徳川吉宗により享保の改革が行われた。吉宗のブレーンであった荻生徂徠は古文辞学で、朱子学から中国の古にかえるべきと唱えた、これが、前近代的公と私の未分化状態から、私的領域文芸や学問と公的な世界政治との分離を行なった。そして経済の発達によって豊かになった人々の中から江戸文化がつくられ、田沼意次の時代に頂点に達した。

 しかし、2度目の幕府の思想のたてなおしを目指した寛政の改革が行われ、寛政異学の禁で、儒教のうち朱子学を正統とし、教育の中心にすえて、儒教倫理の徹底を試みた。閉鎖された国の壁は厚く、再び徳川イデオロギーは復活した。

2019/01/03

江戸の華 山東京伝 と 優雅なユーモア 与謝蕪村


 江戸時代、俳句とその内容を墨絵や淡彩画で表現し、絵と文が一体となった俳画が蕪村の手で完成された。蕪村は絵画とりわけ文人画といわれる南画を描き、やがて俳句の世界でも活躍を始める。それを組み合わせ、さらには絵つきの文を印刷出版する。この絵つきの本は江戸では黄本と呼ばれ、田沼意次の時代に、庶民の熱狂的人気を獲得した。その代表者が山東京伝で、絵の才能と切れのいい文章で痴れ者ぶりを発揮した。京の優雅さや儒教道徳を洒落のめす力で時代のトップランナーとなった。


 17世紀の中頃、江戸で生まれた荻生徂徠の古文辞学は、朱子学も一つの学派に過ぎないとして人情、個人の情を重んじ、享保以降の陽明学や老荘思想の流行、心学や国学などの新思 潮が生まれる素地をつくる。18世紀になると儒教道徳にも実際的な気風が生まれ、都市生活は自由になり、経済は豊かになり、江戸っ子など庶民のための文芸、文化が盛んになる。18世紀は江戸文芸の最盛期を迎えることになる。

 蕪村の生まれた年が京保の改革の始まる年、1716年(享保元年)で、この時から寛政の改革までが、蕪村の活躍した時代、江戸時代の文化が上方から江戸に中心が移る時であった。
 蕪村は大阪に生まれ22才の年に江戸で絵画と俳句を学ぶ。中国の南画を学び、漢詩を学び、中国文化を終生憧憬していた。
 1757年(宝暦7年)42才から俳諧師として京都に定住し俳句と絵を組み合わせた独創的な俳画をつくる。そして俳文という散文の詩を作り、そこに滑稽な絵を載せたり、妖怪絵巻も描いた。それらの作品には優雅なユーモアがみられる。「新花摘」の狐狸談の物語は1797年(寛政9年)に刊行された。


 元禄時代上方を中心とした出版の文化は、18世紀蕪村の時代になると、江戸にも生まれ、両者が混じり最も豊饒なる江戸の文化が花咲いた。 
 江戸は百万都市となり、豊かな庶民も増え、上方の上品な芸にはない独自のエンターテイメントの成り立つ市場規模になった。出版業界は確立し、蔦屋重三郎などが台頭してきた。彼らがプロデューサーとなり、あとは有能な絵師、作家の登場を待つばかりとなっていた。

 1782年(天明2年)山東京伝21才の作品「御存商売物」でデビューする。
本の本と言うコンセプトで、面白かったとか、すごひ、と様々の本を擬人化し、評価して当時の出版事情をパロディー物語とした。上方文学とりわけ八文字屋の京阪小説を茶化し、黄表紙や洒落本、一枚絵や、柱絵という柱に貼る細長い浮世絵が流行し、赤本黒本は流行遅れになる様を描いた。そしてその時代のはやりの食べ物などの流行通信となり、江戸で高い評価を得る。黄本は江戸庶民の心意気の現れで、人々は強い愛着を持ち、上方の文芸を鈍重で古くさいものとした。

 1785年(天明5年)には金持ちの一人息子、ぶ男でうぬぼれものの物語「江戸生艶気樺焼」を出版し、黄本作家として人気が沸騰する。主人公艶二郎のしし鼻は京伝のシンボルとなる。京伝自身は大柄で、美男子で、容貌においても江戸の華であり、粋で、洒脱な生粋の江戸っ子だった。
 その後も「孔子縞ま時藍染」で幕府の儒教奨励を茶化し、「時代世話二挺鼓」で田沼意次の失脚を題材に、早業競争にパロディー化した作品などを次々と刊行した。

 この時代になると徳川イデオロギーはゆるみ、道徳重視から経済重視になってくる。
文芸作品の商品化が進み、京伝は「隠者めかした者が、煩悩に束縛される人々を哀れみ、自ら高踏する態度は銭無し組の負けおしみ、仏教の空も、般若の空観もない、金がすべてを可能とする」と大楽の中で語っている。
 
 京伝29才、1790年(寛政2年)「小紋雅話」でうなぎやネズミ、人の頭を図柄と して着物のデザインをつくり、それを売り出したり、あるいはゆきのあしでは白地に二の字の下駄跡 、人の内股の👣、そして犬の足あと🐾をデザインした。近代的蕪村の創作を飛び越え現代の商業デザイナーの先駆けともいえる作品を残した。

 寛政の改革で、京伝31才の時1791年(寛政3年)幕府に手鎖50日の刑を受ける。
 1793年(寛政5年)に京橋銀座に紙煙草入の製造販売をを始め、デザイナー(意匠作家)の仕事に没頭する。京伝の店の包装紙に謎絵を描いて大人気となる、そして曲亭馬琴は、京伝の店の煙草と煙草入れを擬人化した恋物語をつくる。 
 寛政の改革で、幕政批判や風刺が禁止されると、作品は滑稽さの極みの追求と、仁義忠孝の儒教的教訓話になっていく。政治を語れず、宗教が卑俗化した後の滑稽さは止めどのない馬鹿馬鹿しさのパレードとなる。
 1809年(文化6年)痴れ者ぶりを発揮した人が、蛇の真似をし、蝶々になり、蝙蝠になり、鳶になり、手長海老になり、蝋燭になる。これを歌川豊国の絵でを出版したのが「腹筋逢夢石」、大評判をとり続編が次々と出て、その翌年「座敷芸忠臣蔵」でこのシリーズは終わっている。
 この滑稽本の二大書物は物語にとどまらず、その形態模写は実際に当時の人々がそれを真似て遊んで楽しんだ。   






 そして、読本では、滑稽さを通俗道徳のもとに描いて、馬琴と人気を争い多作になる。
合巻、読本、洒落本、滑稽本それぞれの流行にそれなりの作品を残して山東京伝は生涯戯作者であり、店主であり、江戸っ子の通人であった。晩年は考証学に没頭し、「骨董集」を未完のまま、文化13年56歳でなくなる。


 山東の嵐の後に破れ傘身は骨董の骨にこそなれ       太田南畝

2018/12/22

江戸時代パロディー作家 大田南畝


   役人の子はにぎにぎをよく覚へ

  役人の骨っぽいのは猪牙に乗せ    (  猪牙とは吉原に行く猪牙船のこと)


 江戸時代最も人気のあった文芸は俳句だった。 芭蕉の句は天才的ひらめきによる高踏的境地を詠み、一茶は崇高さとか敬虔な高みを目指すより平易で世俗に近い世界をよんだ。
 この時代さらに庶民に人気を呼んだものが川柳で、俳句から季語をなくし、より庶民的、遊戯的な川柳が生まれる。1765年(明和二年)に柄井川柳による俳風柳多留が大流行し、川柳と呼ばれるようになり、現在もこの人気が続いている。

 同じように朝廷の伝統を受け継いだ和歌をパロディー化したのが狂歌で、漢詩をパロディー化した狂詩も田沼時代流行し、人々は川柳や狂詩、狂歌で、短い文字の中に権威を笑い偽善を暴いて言葉の遊戯をたのしんだ。
 最初狂歌は、上方で流行し、その後1769年(明和6年)には大田南畝(四方赤良)を中心にして、狂歌会というサロンをつくり、江戸で大流行した。狂歌師たちは、宿屋飯盛、朱楽菅江(あっけらかんこう)などの狂名で集まり、武士も町人も、職人も階級に関係なく参加した。この狂歌の仲間に北尾政演(山東京伝)や歌麿がいた。彼らが黄表紙、浮世絵、洒落本の中心で活躍することになる。

 
 世の中は 疝気に頭痛雨に風 花見の幕をはるぞすくなき       大田南畝

 
 いたづらに 過ぐる月日はおもしろし 花見てばかりくらされぬ世は  大田南畝



 いたづらに 過ぐる月日はおもほえで 花見てくらす 春ぞすくなき   藤原興風


 わが庵は都の辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治              大田南畝


わが庵は都のたつみしかぞ住む 世を宇治山と人はいふなり       喜撰法師




 大田南畝は1749年(寛延2年)生まれる。下級武士の出身で、子供の頃から漢詩を学ぶ。1767年(宝暦4年)19才の時「寝惚先生文集」を平賀源内の序文で出版する。古文辞派の漢詩を明るいタッチでパロディー化した。その後安政期には戯作をつくり天明期には黄表紙に没頭する。四方山人赤良の名で当世風の新しみをうりにした作品を書いた。
 1783年(天明3年)「通詩選笑知」で唐詩選のパロディー狂詩を、そして狂歌をつくり狂歌会の中心となる。狂歌の仲間たちと集まって、和歌の連句と同じように、次々と句をつくり遊んだ。そして、30代前半の若さで天明狂歌の寵児になる。
 これが江戸と上方を席巻した狂歌の最盛期であった。

ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ鶉なくなる深草の里    四方赤良(大田南畝)

夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里       藤原利成



 徳川時代中期、田沼意次の時代(1767年から1787年)の財政政策で経済は活発化し、豊かな庶民を生み出した。 江戸には各地方より人びとが集まり、俳諧師、剣術士、役人、浪人、坊主、船頭、駕籠かきなど が多くの庶民が生活を楽しんだ。当時両国橋のにぎわいの様子を平賀源内は書いた。「僧あれば俗あり、男あれば女あり、屋敷侍の田舎めける、町もの当世姿、長櫛短羽織 、若殿の供はびいどろの金魚をたずさへ、奥方の附びとは今織のきせる筒をさげ、  」
 またその頃、権威的な学問を、 政治や宗教と関係のない現実的学問に変えていった。
古文辞学は儒教を変え、国学はやまと心をうたい、蘭学は科学的方法を教え  、現世的文学の黄表紙や狂歌 、狂詩が流行した 。田沼意次の政策で士農工商の差なき人材の登用や自由な気風で商業も栄え、文芸も栄え絵も本も数多く出版され、宝暦天明期文化として多くの江戸町人文化が生まれた。



 黄表紙と呼ばれる絵付きの小説もこの時代に流行した。1775年(安永4年)恋川春町による作品「金々先生栄花夢」が人気を博した。邯鄲の夢と同じよう一夜のうちに豊かになり贅を尽くして遊蕩するさまを絵つきの物語で、田舎者の貧乏人金村屋金兵衛が江戸にでて豊かになり豪遊する姿を、着物は黒羽二重にビロードの帯といった金持ちの若者のいでたちを絵に描いた。

 しかし、天明期には飢饉や百姓一揆が頻発し、1787年(天明7年)田沼意次が失脚し翌年、松平定信が老中の筆頭になる。そして、松平定信による寛政の改革が行われた。農村の復興させ、贅沢をやめ、儒教とりわけ朱子学を重視し、文武両道質実剛健を政府が推進した。

 黄表紙で、幕府のこの政策を強烈に皮肉ったのが山東京伝。「孔子縞ま時藍染」1789年(寛政元年)で人々の物欲や金銭欲がなくなる様を描いた。
 例えば、おいはぎはぎ服を取らずに服を与え 、摺はお金を取らずに分け与える。そして人々は年貢を多くしてくださいと請願する。これは儒教精神が行き渡ったためである、と茶化した。幕府の期待される大衆像を逆手にとって、最後には人間はお金を欲しくはないのに、小判を降らせる天があると絵に描いた。
  しかし、幕府はこの反幕府の雑誌を取り締まり、1789年(寛政元年)恋川春町は「鸚鵡返文武二道」で松平定信に咎めを受け、山東京伝も罰金刑を受ける。出版の弾圧が始まり、太田南畝は狂歌の世界から身を引く。


 大田南畝は狂歌の世界から、松平定信の政権が用意した登用試験を受けて官吏になる。官吏として大阪や長崎で仕事を務め、紀行文やその土地の見聞記を多く書き残している。それらは古文辞派の事実を重視した記録になっていた。70才近くになり、再び狂詩、狂歌、狂文を書き始め75才の天寿を全うした。

 田沼意次の時代、経済は栄え、豊かな庶民が生まれ、文芸は花開いた。また蘭学、古文辞学、国学そして経世済民の考えなど多くの文化の活動も活発になった。一方賄賂は横行し、風紀は乱れた。そこに、天明の大飢饉が起こり餓死者も出て、農村は立て直しを迫られた。寛政の改革により、農村の復興が図られ、贅沢は禁止され、黄表紙などの風俗に抵触する本は取り締まられ、幕府の批判は禁止された。狂歌や黄表紙の饗宴ははかなく消えた。その後、教訓じみた、政治臭のない笑い、東海道中膝栗毛などの滑稽本は生き残った。
 


       白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき

2018/12/06

小林一茶 おらが春の世界


    祇園精舎の鐘の音
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必衰の    ことわりをことわりをあらわす


 平家物語は、日本を代表する抒情詩で、琵琶法師が読み上げた。 日本の文学は平安時代から、仏教思想の影響を受けた多くの文学作品が生まれている。同じ頃、西行が仏教的無常観を短歌につづり、江戸時代に芭蕉の俳句になり、世界的に高く評価された。


 旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る

  Sicken on a journey,

    My dreams go wondering round

    Withered field.



  芭蕉は、禅宗特に臨済禅の思想から、高みを目指した句を作った。それは英語やその他の言語に翻訳され、世界に広がった。


  此の道や行く人なしに秋の暮

  Along this road

        Goes no one,

        This autumn eve.




 人々は言葉を話し、文章を書いて、物事を伝え、言語によって世界を組み立て、秩序づけ、時間と空間の中に意味ある世界をつくった。感情は歌や絵画や詩で表現された。詩から、字数を少なくした短歌へ、さらに極限まで言葉を縮めることによって俳句が生まれた。31文字から17文字にした時、その文字と空白が、共鳴し、鐘を鳴らしたように、部分が全体と響きあう悟りの世界になる。文字は圧縮され、論理ではなく、心の奥深いところにある、意識を超越したもの、禅の公案になる。説明的な和歌にくらべて、さらに圧縮した俳句の文字がある時、単なる諧謔から特異点で一変する。

        古池や蛙飛びこむ水のおと


  ルイス カーンが、「空間とは、自己の身体を包み、四方に広がっているものでである。それに限定を与えるものが、建築である。」とした。さらにこの空間を縮め、神聖な禅的な世界にしたのが千利休の茶の湯だった。

 プライスは、俳句は全東洋文化の精華である。俳句は禅の視点から理解すべきものである。言葉では述べることができない不立文字であり、禅を体現したものと捉えた。
 空間を極小まで縮めた茶室と同様に言葉を極小まで縮めたものが俳句であり、禅であるとした。これが、アメリカの作家サリンジャーなどの カウンターカルチャーに影響を与えた。

                                 雲の峰幾つ崩れて月の山


        静かさや岩にしみいる蝉の声                                                    

                                 芭蕉

        静かさや湖水の底の雲の峰

                                                                                           一茶   

 小林一茶は1763年信州に生まれる。15才になり江戸に奉公に出され、20代にして葛飾派3代目素丸の執筆となる。27才の時江戸を離れて、東北の旅に出る。30才になり、足掛け6年四国九州など西国の旅に出て、「寛政三年紀行」を世に送り出す。

      
        青梅に手をかけて寝る蛙かな


        かたつぶりそろそろ登れ富士の山
                       一茶

 動物が蛙やかたつむりあるいは、虫や草木が人となり、感じとり、宇宙をみる。
俳句と禅と大乗仏教の授業をしている、シーモア(サリンジャー)の愛唱した俳句が、かたつぶりそろそろ登れ富士の山だった。


        ゆうぜんとして山を見る蛙かな

        むきむきに蛙のいとこはとこかな

           秋の夜やせうじの穴が笛を吹く


                                 雷のごろつく中を行 々



 松尾芭蕉は禅の思想、臨済禅の影響を受け、一方小林一茶は親鸞の教えを信じていた。
また、芭蕉が武士の出であったのに対して、一茶は農民出身。一茶はあらゆる人々の中に仏性を見、蛙や虫だけでなく、ありとあらゆる生き物に、雛のさえずりのように、さえずり、うたわせた。

 宝暦から天明にかけて、江戸の文化は栄え、俳諧師も多く、武士、農民、商人の階級を超えた文化の世界がつくられた。1806年(文化3年)一茶45才の時、寛政異学の禁が出された。儒教のうちの朱子学を正統として、陽明学や古文辞学は異端とされ、幕府の教育では、禁止され、農民は都市から生まれた土地に帰農させられた。その後この朱子学の影響で、士農工商以外の定職のない人々、文化を担う高等遊民は、肩身の狭い世界になりつつあった。

1814年(文化11年)52才で菊と結婚。3男1女をもうけるも幼くして亡くなる。

        名月をとってくれろとなく子かな
                                

文政元年以後、江戸から信州柏原に定住する。
1818年(文政2年)に「おらが春」をまとめた。これは一茶の死後出版された。

        目出度さも 中くらい也おらが春

        這へ笑へ二つになるぞけさからは


阿弥陀如来の信仰を深め 其身を如来の御前に投げ出して 地獄なりとも極楽なりとも あなた様の御はからひ次第 あそばせくださりませと御頼み申すばかり也



       ともかくもあなた任せのとしの暮

おらが春の一茶は、覚醒者の高みからでなく、平凡な人、親鸞の他力本願の信者として、妻帯し生活する一人の生活者として、信濃の柏原で暮らした。若い時の荒凡夫であった一茶は52才で結婚し、妻子と死に別れ61才で一人の暮らしに戻った。

       春立つや愚の上に又愚にかへる

その後再婚し、1827年(文政10年)65才の時、柏原の大火で家を焼失、その土蔵で死亡。

       やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ
    

    
       

         








2018/11/11

J.D.サリンジャー 魂の遍歴

。ライ麦畑とグラス家の人々
                     J.D.サリンジャー

 アメリカ文学はメルヴィル、マークトウェインやヘミングウェイなどの外向的、活動的な冒険小説が多く支持されてきた。
 サリンジャーは1950年代、チャールズ ディケンズのデイヴィッド カッパフィールドではないホールデン コールフィールド16歳の物語を書いた。ペンシー校から退学処分になり、ニューヨークの街を歩き、俗物社会の欺瞞に対する叫び、その会話で全編がなりたっている「ライ麦畑でつかまえて」を書いた。ビートルズのロール オーバー ザ ベートーベンと同じようにロールオーバー ザ ディケンズの新しい会話の文章で、既成の文学を乗り越えようとした。その内向的文学は1960年代アメリカの若者の心を捉え、彼等の聖典となった。

  アメリカは繁栄を謳歌した時代を幾度か経験した。19世紀にはその繁栄をマーク トウェインは「金ピカ時代」として小説化し、1920年代のニューヨークの繁栄はフィッジェラルドが描き出した。 第二次大戦後はアメリカの時代で、世界の富はアメリカに集中し、繁栄し実用主義、物質主義の時代になった。この物質的繁栄の下のフォニーなスノッブな人々(いんちきくさい俗物)に同調できない気持ち、フラニーと同じような困惑を新しい文体で語ったThe Cacher in the Rye は1950年に書かれた。



 1955年ニューヨーカー誌に「フラニー」を発表。レストランの一室、マティーニとチキン サンド、カタツムリと蛙の脚をテーブルに置いて「巡礼の道」についてレーンに語り始める。絵画のように描写された部屋でふたりの会話劇が始まる。これは1957年発表の「ズーイ」の序章だった。
 
 7人兄弟姉妹の6番目の男の子として生まれたのがズーイで末っ子がフラニー。ふたりはニューヨークのアパートの5階、ワイズ チャイルド一家、グラス家の人たちが育った室内で今は兄弟2人が両親と生活する。
 フラニーは大学生活で、通俗的で、知恵とは関係のない知識の切り売りする教授やまわりの人々に拒否感、嫌悪感を抱いていた。フラニーの心をとらえ、欺瞞の世界からの救済を「巡礼の道」に求め、出口のない、内的世界に閉じこもる。5歳年上の兄ズーイは、この妹の脱出路を見出そうとした。
 ふたりの兄弟たちの幼い頃からの宗教的体験、10才のフラニーがマタイ伝第6章を開いて、大騒ぎをしたことを「鳥たちを見よ。彼らは種子を播くこともなく、収穫を刈り入れることもなく、それを納屋に集めることもない。それでもなお、汝らの天なる父は彼等に食物を与え給う。あなた方はそれらより遥かに優れていると思わないか?」聖書のこの章に愛想を尽かし、ブッダ方面に直行したことを。
 8才の頃、ズーイがキリストと一緒にマティーニを飲んだ話。 そして兄のシーモアにワイズチャイルドの番組に一緒に出演した時、太ったおばさんのために靴を磨きなさいと言われた話。その時は何のことかわからなかった。あとで、その太ったおばさんこそすべての人であり全て太ったおばさんでない人なんて誰1人いないんだと悟り、その太ったおばさんと言うのは実はキリストその人なんだとわかったこと。
 ズーイは兄のバディーになり、そしてシーモアの言ったことを必死にフラニーに伝えた。ズーイは導師になっていた。それを電話できいたあと、深い眠りに落ちる前の数分間、フラニーは天井に向かってそっと微笑みかけていた。

 青春時代に現実社会に足を踏み出したとき、人々の浅ましい利己的なあるいは物質主義者の世界を目にしたとき 、それを肯定きない人々は、社会を変える学生運動や世界観を変えるカウンターカルチャーへとまっしぐら。その道しるべとなったのはインド哲学やブッダ、日本の禅や俳句、中国の老子などだった。1950年代にはこれらがアメリカの文化に受け入れられるようになり、1960年代のビートジェネレーションは古い価値を捨て、カンターカルチャーの文化運動を起こした。


 その後1963年「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア 序章」を発表。グラス家の長男で家族の精神的指導者だったシーモアを次男のバディーが語る。
 二人で遊んだこと。行動はぶきっちょな兄の思い出。大人になり、シーモアの結婚式での出来事。シーモアは幼い頃からの東洋哲学の興味と憧れていたこと。とりわけ一茶に傾倒し、その俳句に仏教との同一性を発見した。シーモアは美しい詩を残し、若くして自殺した。そこには俳句の形式に習った短い、装飾を削ぎ落とした美しい詩が残された。
 7才のシーモアを描いた「パブワース16、1924」を最後にグラス家の物語は終わり、サリンジャーは沈黙し、伝説の人となった。


 サリンジャーは「らい麦畑でつかまえて」で既成の権威、文化に反抗する姿を、次のフラニーでその反抗から迷いの姿を、そしてズーイでその混迷からの離脱を描いた。そのあとシーモアとバディーの物語では、そして若くして知的で神童のような一家の長が自殺したことを「バナナフィッシュに最良の日に」に、「シーモア序章」でその心の遍歴をたどる。その後も多くの人はグラス家の物語の続編を期待した。「私はまた非常に多くの、また未整理の原稿を書きためているのだが、それらはいつか受けがいい表現におきかえてかたをつけるべきだと考えている(磨きをかけるという気の利いた言葉もある)。私自身は電光石火のごとく仕事をするのだが、私の分身であり協力者たるバディー グラスはがまんならぬほど遅いのだ。」と書き記し、サリンジャーは、沈黙を通し続編を発表することはなかった。

 世界に広がった学生運動やカンターカルチャーの運動は1970年代収束し、アメリカは何もなかった70年代と呼ばれるようになる。精神世界のニューエイジ運動は神秘主義、インディアン文化、東洋文化の小さな集団に、ばらばらにわかれ混迷した。

2018/10/21

シッダールタ   魂の遍歴   ヘルマンヘッセ

シッダールタ                                  インドの詩

                             ヘルマン ヘッセ

 家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、沙羅の木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタは、バラモンの美しい男の子、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダとともに、おいたった。父は、むすこの中に偉大な賢者、司祭、バラモン族の中の王者たるものが成長しつつあるのを見た。
 やがて、ゴーヴィンタとともに、沙門たちのもとで、静思し、断食し、瞑想によって、苦行を通して滅我の道を歩んだ。心の中のあらゆる執着と衝動が沈黙したら、そのときこそ究極のものが、もはや自我でない本質の奥底にあるものが、大いなる秘密が目覚めるだろう。

 やがて、仏陀の教えを聞いた。苦悩について、苦悩の由来について、苦悩を除く道についての教えを説くのを聞いた。ブッダは四諦を教え、八正道を教え、仏陀の道を行くものは救われると説いた。友ゴーヴィンタはその道に帰依した。

 シッダールタは友と別れ、改めて遍歴の旅に出た。そして彼は気づいた。「自分が自分について何も知らないこと、シッダールタが自分にとって終始他人であり未知であったのは、一つの原因、ただ一つの原因から来ている。つまり、自分は自分にたいして不安をいだいていた、自分から逃げていたということから来ている。真我(アートマン)を自分は求めた。梵(ブラフマン)を自分は求めた。自我の未知な奥底にあらゆる殻の核心を、真我を、生命を、神性を、究極なものを見いだすために、自我をこまかく切り刻み、殻をばらばらにはごうと欲した。しかしそのため自分自身は失われてしまった。」
 意味と本質はどこか物の背後にあるのではなく、その中に、いっさいのものの中にあった。

 シッダールタの覚醒へ至る道を、自らの精神遍歴に重ね合わせ、「インドの詩」の副題で1922年に刊行された。この物語の第一部は、尊敬する友 ロマン ロランにささげる ではじまる。

 ヘルマンヘッセは1877年、南ドイツのカルフに生まれる。プロテスタント宣教師の父と、インド学者でやはり宣教師の娘の子供として生まれる。祖父と母と父は三人とも長くインドに暮らした。祖父のガラス戸棚の中に、インドの小さな踊る偶像の姿をして立っていた牧神バンによって育てられ、インドの仏像経典、織物に囲まれ、仏教の祈りの文を父親から聞いて育った。
 少年時代、南ドイツ、シュヴァーベン地方のシュヴァルツヴァルト(黒森)の古い街で、「美しく多彩な世界と戯れ、動物や植物ばかりか自分自身の空想や夢のジャングルでもあらゆる所を我が家とし、自分の力や才能を楽しみ、燃えるような願いに焼き尽くされることなく、むしろこれを謳歌した。」

 1870年代は、勃興するドイツの時代で、ビスマルク宰相によって、ヘッセの暮した南ドイツは合併され第二帝政ドイツとなった。その後ウイルヘルム二世の時代に、ドイツはヨーロッパ大陸の覇者から、さらに当時のイギリス帝国に対抗すべく海軍を増強し世界に展開し始めた。それに対抗してイギリスはチャーチルが海相になっ海軍の拡大と近代化を始めた。
 帝国の工業化、強国化の時代、当時のドイツ国内では、キャンプファイヤーを囲みギターを弾き、徹夜で議論したりするワンダーフォーゲルなどの自然の中の文化運動が青年たちの心を捉えていた。1904年「郷愁(ペーター カーメンツイント)」は青年の心の成長と感覚と、自然の雲や空への憧憬を小説にし、発表した。1906年にはヘッセ自身の経験を、なりたいと思っていた理想の人と、現実の自分自身を二人の人物に分割し、彼らの成長を詩的文体でつずった「車輪の下」を出版し、ドイツの詩人、ドイツ精神の騎士と言われるようになった。

 1914年そのドイツは第一次世界大戦に突入した。ヘッセはベートーベンの歓喜の歌の導入「友よ、そんな調子でなく」を使って、戦争に同調し、愛国心をあおり戦争の至福をうたう詩人、戦争賛美の作家たちに、ペンで 扇動する事をやめようと訴えた。しかしドイツの多くの友人、新聞など出版者はヘッセを攻撃し、ヘッセは孤立した。その時フランスの小説家ロマン ローランはやはりフランスで反戦を訴えていた。ヘッセを称賛し、彼の自宅を訪れ、その後、長い友情を結ぶ。
 当時をヘッセは「そこへあの1814年の夏がやって来た。突如として内も外もすべてが一変したようだった。あの当時、私が他の人々と違っていたのは、たんにあんなにも多くの人々がもっていたあの大いなる一つの慰め、すなわち熱狂が、私には無縁のものだったということだけである。」と語っている。
 
 27歳の時、ショウペンハウエルの哲学の探求の時、インド思想に再び出会った。「鳥は卵から出ようもがいていた」そしてユングの精神分析による意識の変革でその殻を破り、インド思想を元にした、シッダルータの構想が1919年にできた。この時期に、以前の自然観察者から内面世界の観察者となり、夢を言葉で描き、魂の動きを目に見えるように言葉にした「内面への道」の小説家に変貌した。 
 同じ年、エミール ジンクレーアの著者名で「デーミアン」を発表した。第1章に「2つの世界」の表題をつけた。明るい世界と対立する闇の世界をジンクレーアとデーミアン二人の少年の心の葛藤(カインとアベル)と成長、救済をもたらす聖杯への歩みを描いた。カインは悪でなく善と悪を超えるものとデーミアンが教え、グノーシス派のアブラクサス神話を遍歴し、デミアンという幻影のような青年をうんだデーミアンの母にたどり着く。ジンクレーアは最後は戦争で瀕死の重傷を負い、人類について鮮明な幻覚をみる。

 デーミアンはキリスト教徒であるヘッセ自身の精神の自叙伝である。それは第一次大戦に敗北したドイツの若い世代に、不気味なほど正確に時代精神を射当てた作品として受け容れられた。

 シッダルータはキリスト教的な世界とは異なる仏教の物語で、悟りに至るひとりの聖人の心を描いた。第一部はすぐに完成した。
 第2部は3年後の1922年になり形をなした。シッダルータはカマーラと出会い、世俗の商人とともに働き、世俗の欲望、愛憎の世界を経験した。街から離れ河のほとりについた。渡し守になり人々の煩悩の中に梵を見た。そして完成(オーム)を知り、生命の流れと一致した悟り、万物の流転に身をゆだね、宇宙と一体となる悟りに達した。


 そして、再び老いたゴーヴィンタと再会し悟りを、涅槃(ニルバーナ)を語った。一切衆生の中に隠れた仏陀がある。世界は瞬時、瞬時に完全であり、死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するために多くの世俗を体験したことを。
 老いた友ゴーヴィンタはシッダルータの顔に輪廻転生の幻影を見た。そして老いたゴーヴィンタの顔に涙が流れた。シッダルータの微笑が彼にとっていつか生涯のあいだに貴重で神聖であったいっさいのものを思い出させた。

 インドの僧のリズムを取り入れたこの長編叙事詩は世界中で翻訳され出版された。
 特にアメリカではヘンリーミラーが「世に認められている仏陀を凌駕するひとりの仏陀を創り出すことをそれがひとりのドイツ人によってなされた。シッダールタは私にとって新約聖書以上のもの」と絶賛。若者のバイブルとなり500万部以上発売された。

 その後、ドイツは再び戦争に向かい破局を迎える。第二次世界大戦後の1947年、ヘルマンヘッセにノーベル文学賞が与えられた。