2026/10/10

鎖国日本の窓、近代国家オランダ




  今年の秋、大阪の中之島美術館でフェルメールの真珠の耳飾りの少女が公開された。17世紀のオランダ絵画は、レンブラントやフェルメールなど日本で不思議なほど人気が高く多くの人が訪れ長い列をつくっていた。


 1500年を境に世界は前近代から近代に入る。オランダがこの文化技術革命、自由な思想、科学、出版文化の中心地になる。1600年徳川時代の最初の頃の人口は日本約1850万人、スペイン約824万人、ポルトガル約200万人、イングランド約415万人、オランダ共和国約150万人であった。

当時の日本はヨーロッパのどの国よりも人口も多く軍事力も強かった。オランダ共和国は日本の人口の10分の1以下であった。オランダは1602年には東インド会社をつくり海軍、商業そして金融力を急速に伸ばしてきた。世界的な商業と海運国家になりアムステルダムには各地から商人、ユダヤ人亡命者、知識人などが集まってきた。そこでさまざまな思想の本が出版されヨーロッパ全体に広がっていった。


 1596年フランス生まれのデカルトがオランダに移住し、われ思う故に我ありとした理性が真理を見つけるという近代知識の出発点となった。そして自然を数学で記述する方法を確立して心身二元論を確立した。1632年生まれのスピノザが亡命ユダヤ人としてやはりオランダにやってきた。そして宗教でなく理性で世界を理解する、宗教と国家権力を切り離す考えを打ち出し、近代思想が始まった。



 そのオランダに1606年レンブラントは生まれ、1669年に亡くなるまで600点以上の絵画を残す。1632年にフェルメールは生まれる。1648年フェルメール16歳の時に80年に及ぶスペインからの独立戦を戦い独立を勝ち取る。そして共和政のオランダには豊かな商人階級が生まれ絵画の依頼人となった。市民社会になって、庶民も絵画を飾るようになり、その需要に応えるためにオランダには多くの画家が生まれ、パン屋と同じ数だけ画家がいた。そして画家はそれぞれ得意の分野を持ち、花を描く画家、食べ物だけを描いたり、牛を描いたり、静かな家庭の生活を描いたそれぞれの技術を洗練させ、絵画が大量に生産された。この繁栄の60年間に、歴史に残るオランダ絵画が描かれた。フェルメールはわずか37枚の絵を残し43歳で亡くなった。フェルメールの「兵士と笑う女」「青衣の女」「窓辺で水差しを持つ女」「リュートを調弦する女」など室内絵画の壁には世界地図が描かれたものが多くある。当時のオランダの人々が国外に関心を持ち、海洋国家として世界貿易に関与していたことがわかる。




 









 当時ヨーロッパには多くの王国が各地を支配していた。そのうちのスペイン、ポルトガルは王権が強く、海外に進出しキリスト教、カソリック教を布教し宣教師を送り他国を支配していった。織田信長の時代、カソリック教イエズス会のフロイスと会い、安土にセミナリオの建設さえ許した。

 しかし秀吉の時代、1598年にサンフェリペ号事件が起きた。土佐浦戸にフィリピンからメキシコに向かう途中のスペイン船が遭難漂着した。その時のスペイン人の乗員が尋問で「世界の各地にスペインが領土を確保したのは、宣教師を送り、信者が増えたところで反乱を起こさせ、その混乱に乗じて軍隊を送り込み領土化する」と述べている。

 江戸時代、本国でスペインとの独立戦争を戦っていたプロテスタントの国オランダは、カソリック教のスペインポルトガルの排除に動いた。オランダは宗教でなく交易に徹し出島による幕府管理下の貿易形式を順守する。こうして日本とヨーロッパの貿易はオランダ東インド会社が独占するようになった。1641年オランダ人は出島に移され、他のヨーロッパ人は日本国内から追放された。


 徳川幕府は、儒教によって統治システムを作り、キリスト教は排除し、仏教は擁護した。デカルトやスピノーザの影響は全く受けることはなく、市民社会オランダの商人や庶民に人気のレンブラントやフェルメールの絵も日本にはもたらされることはなかった。

 国家統治の原理は儒教による修身斉家治国平天下であり、絵画は狩野派の豪華な絵が活躍し屏風は金の地に鷹や虎や龍あるいは植物などを配した豪華絢爛な絵が権力者の住居を飾っていた。日本の庶民が浮世絵を楽しむのは100年後になる。

 

 徳川幕府の社会の要請にマッチしたのは西欧、オランダの自然科学で吉宗の時代に洋書輸入の制限が緩和されると天文学、地理学、植物学、化学、物理学、軍事学など、かなり広範な知識を「蘭学」という形で日本に移入された。特に重要なのがオランダ医学であった。1774年には杉田玄白・前野良沢らによる『解体新書』が刊行される。こうしてオランダの実学を必要な部分だけ次第に取り入れて、国内の秩序を維持したいった。


 同じ頃、ロシアのは自らオランダへ行き、造船所で船大工として働き、オランダの造船技術を直接学んだ。そしてロシア海軍を作り、バルト海や黒海に進出した。

200年経った幕末になるとになるとロシア・イギリス・アメリカなどの脅威を背景に、オランダから海軍、陸軍、砲術などの軍事技術を体系的に学ぶようになり、1855年以降には長崎海軍伝習所でオランダ人教官から航海術、砲術、造船などを学び始めた。

 徳川家康がピョートル大帝のように海洋進出したり、デカルトやスピノザに影響されたり、オランダ絵画に興味を示したら日本はまったく違った国になっていたかもしれません。

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