
これは、ソ連がヨーロッパで新しく組み変えた戦争観によってジューコフ将軍のもとに近代戦でのぞんだのに対し,日露戦争を引き継いだ非近代的世界観で戦った日本はソ連機甲部隊に打ちのめされた戦争でした。
参考 村岡著 日本思想史研究

いざさらば 死にげいこせん 花の雨。一茶の時代、死ぬことは今よりずっと身近で自然なものでした。
1960年代人工呼吸器ができて、息ができなくなったり、呼吸が止まると、そう管といって、気管にチューブを入れ、それをとおして、空気を器械的に肺に送り込む装置を使い延命可能となりました。
原理は比較的簡単で呼吸を自分でする代わりに、器械をつかって外から酸素の混じった空気をふいごの原理で規則的に入れてやるわけです。 急性の肺の病気や呼吸障害の場合、効果は劇的でした。いままで助からなかった人が助かるようになり、救命医学の進歩に皆が感激していました。
しかし、問題は、心臓や肺そのほかの臓器が回復しても、脳が回復不能の事態が起こったことです。これが脳死の状態です。細胞の死は、場所によって時間的にばらばらに起こります。自然の状態では、呼吸がとまればすぐに、心臓も止まり、数秒後に脳の細胞が死んで.その後ゆっくり全身の細胞が死んでいきます。
レスピレーターを使うと、脳が死んでも心臓は生き、腎臓や肝やほかの臓器が生きている状態、脳死の状態がおこってきました。自然の状態での死が、人間の判断やコントロールによる死になり、生きている心臓などの臓器を他人に移植する治療もできるようになりました。そのためにはどの時点で死んだと判断するかの必要性が生まれてきました。
今回の法案のA案は脳死は一般に人の死であり,本人が生前に拒否しなければ,家族の同意で臓器提供を可能にする。また,15歳未満の臓器提供を禁ずる現行法の年齢制限を撤廃するというもので、現在はアメリカなでの外国で臓器の提供を受け移植手術をしていたものが国内でも可能となります。
新型インフルエンザ
一般の風邪もインフルエンザもヴィールスが体に侵入しておこる感染症です。
冬には毎年何万人もの人がインフルエンザにかかり,季節性インフルエンザと呼ばれています。今回世界中に蔓延した新型インフルエンザは抵抗力をもった人がいないため一気に世界的な大流行をおこしました。しかし,幸いなことに毒性は弱く、メキシコ以外では死亡者は多くありません。
今回政府が新型インフルエンザに対するガイドラインを今年の2月つくっています。
前段階 (未発生期)国内では未発生の段階。
第一段階(海外発生期)
第二段階(国内発生期)
第三段階 国内で患者の接触歴が疫学調査で追えなくなった事例が生じた状態
感染拡大期
蔓延期
回復期
第四段階(小康期)患者の発生が減少し低い水準でとどまっている状態。
これらを想定して、医療機関などの対応策が練られていました。
しかし、これは高毒性の鳥インフルエンザを想定したものでした。 WHOは当初よりcontainment(封じ込め)は不可能、めざすべきはmitigation(被害の軽減)だとアナウンスしてきたにもかかわらず、日本では水際撃退作戦を機内での検疫を重装備の医官が毎日1万人に対して行いました。
過去の新型インフルエンザは、最初の1、2年で人口の25%くらいは感染し、数年以内には大半の国民がかかり、季節性インフルエンザになっていくことがほとんどです。
今年の秋には第二波の流行がおこるのはほぼ確実です。今後の新型インフルエンザに向けてするべき対策は,今回の経験を科学的に検証し、検疫はどの程度有効であったのか、毒性によって医療体制や社会活動を今後どの程度制限するのか,感染症専門施設の充実か発熱外来の充実かワクチンの活用はどうするかなどの検討することが大切です。

大正時代は1912年からはじまり、1926年までの15年間で,この時代日本は極東における大国になりつつありました。
この大正時代の代表的作家は芥川龍之介で、1892年(明治25年)に生まれ、大正4年(1915年)に羅生門を発表し、事実上のデビュウ作となりました。文章のうまさ、冴えそして物語の見事な構成力で、人間心理を描き出しスマートな短篇小説を次々と生み出し、若くして国民的作家となりました。薮の中、鼻、蜘蛛の糸,地獄変は今昔物語など昔話を題材として創作したもので,中国を舞台にした物語、童話など多岐にわたる短篇を世にだしています。
大正3年(1914年)ヨーロッパを主戦場として第一次世界大戦勃発。日本は参戦したものの,被害はほとんどなく,輸出で利益を得、つかの間の好景気と平和がおとずれ,大正モダンと呼ばれる都市化と,大衆化の時代でした。
それにあわせて,国内にも日本改造を合い言葉に様々な団体ができました。民主主義を目ざす黎明会や新人会、それと対極をなす興国同志会など国粋主義団体が次々と結成され、文学もプロレタリア文学や自然主義文学が台頭してきました。
一方、中国では大正8年(1919年)には、講和会議に対する幻滅から,五−四運動が起こり、又,日本の21か条の要求など対中政策に対して、排日反日運動が高まっていました。
しかし、中国は統一されず中華民国政府、共産党、地方軍閥の間で内戦がおこり混乱を極めていました。
この頃大正10年(1921年)、芥川龍之介は大阪毎日新聞の特派員として,3月から7月までの4ヶ月中国を旅行しその旅行記を“支那游記”として発表しました。
○支那の紀行となると,場所そのものが下等なのだから,時々は礼節を破らなければ溌溂たる描写は不可能である。
○現代の支那なるものは,詩文にあるような支那じゃない、
○上海同文書院の見学では一本の鯉幟を見て、“支那じゃない日本にいるのだと云う気になった、しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に,支那の百姓が働いていた。それが何だか私には怪しからんやうな気をおこさせた。”
○あるいは天平山白雲寺の反日の落書きについては、“この使喉費は30万円内外ということだ。”と記している。
毎日新聞の紀行文の随所に見られる、今では考えられないような表現や偏見に驚かされます。それが、当時の日本人の一般的な中国観そのものだったことが伺われます。
○ 又短篇小説“馬の脚”で、北京の三菱につとめている主人公が、“わが金甌無欠の国体は家族主義の上に立つものなり。家族主義の上に立つものとせば,一家の主人たる責任の如何に重大なるは問うを待たず。”の文章は当時の日本の家庭に、国体思想が行き渡っていたことを示しています。
大正時代の後期の作品は、大導寺信輔の半生、或る阿呆の一生や歯車など自分にまつわる物語を書きつつ,人生に対する漠然たる不安から、1927年(昭和2年)、35歳で自らの短い生涯の幕を閉じました。
芥川龍之介の死んだ翌年、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件がおこり、満州事変、支那事変から、太平洋戦争に時代は突入していきました。
ドイツにおける魂の再生
19世紀後半、ドイツは,まさに勃興する国、ヨーロッパの強国になる時代で、活力有る国民が近代的制度を充実させすみずみに青春の精気がみなぎっているといわれたときでした。
“
その時代の代表的作家が 1877年南ドイツのガルフに生まれたヘルマン ヘッセです。ヘッセは4歳からはバーゼルにうつりました。プロイセンがこの地バーゼルなど南ドイツも併合し大ドイツ統一期を造り上げた時期にあたります。
1870年ビスマルクのもとで普仏戦争に勝利しその後しばらくは,大規模な紛争はなく、工業や技術が急速に進歩した時代でした。
後にウエルビー卿が1914年に“我々が覚えている1850年代のドイツはとるに足りない連邦の集まりで,とるに足りない君主が治めていた。だが,一人の人間の生涯の間にドイツはヨーロッパ有数の大国の一つとなりなお成長を続けている。これだけをとっても,1890年以降の半世紀にわたって“ドイツ問題”世界政治の悶着の種となったことは不思議ではない。
と述べたごとく、第一次大戦前にはドイツの工業力はイギリスを追い越し,フランスやロシアの約2倍に達していた。そして,列強の力関係をくつがえすほどの物質的資源を手にしていました。
ヘッセは、その後“郷愁“(1904年)”“車輪の下”(1906年)“春の嵐”
を発表。
ヘッセ37歳の1914年夏第一次世界大戦勃発。軍務に志願するも、”おお友人たちよ、その調子はやめよ“を出版し、ドイツの中央権力は自分たちの為でなく,ヨーロッパ文化全体のためにも未来に生き残る為の戦争を遂行せねばならない。としてドイツに対する愛国心と戦争に対する反対の共存する立場を表明し、フランスのロマンローランはそれに賛同をしました。
大戦後のヨーロッパに対しては“友愛”の言葉を掲げヨーロッパ諸国
民の分裂修復を唱え、1919年“デーミアン”を発表。戦後ドイツ精神の魂の復活をデーミアの言葉に見いだし、多くの若者たちの賛同を得ました。
1913年に旅行したアジアの印象をもとに、“シッダルタ”(1922年)を出版。もともと母親は宣教師としてインドに出かけた時,インドの地で生まれ、それを辿る旅行でもあった。その後も“ナルチスとゴルトムント”(1930年)などの小説でさらに人気を博した。堅実で社会に適合した人物と反社会的であるものの情熱的で奔放な生活を送る人物を対比して登場させ、複雑な人間の心の中を描きだしています。
ナチス政権下では,スイスに居を移し,反戦を訴え、1946年ノーベル文学賞を受賞しています。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
島崎 藤村 若菜集 1896年発表
その後“破戒”や“家”で自然主義作家として、有名になる。
1913年4月42歳のときフランスに留学。
その時代のフランスは、1870年普仏戦争に敗北しその後,海外の植民地を巡ってイギリスと衝突をおこし、アフリカ、インドシナなどにイギリスに次ぐ広大な植民地を手に入れていました。その後、イギリスと和解しロシアとは同盟を結んでドイツに対抗していました。
ヨーロッパは、20世紀初頭 ドイツの台頭があったものの、社会民主主義が主流で戦争は起こらないと思われていました。しかし、“チボー家の人々”に詳しく描かれているように、ジョレスが暗殺され、その後ドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入しました。
1913年4月42歳のときフランスに留学した藤村は、第一次大戦中もフランスに残り,東京朝日にフランス便りを書いています。
1914年8月3日ドイツがフランスに宣戦布告。このときの報告は“パリにみるべきものの少ない時は今です。あらゆるミューゼを始め、パンテオンの戸も閉ざされ,番人は去り,いっさいの美術庫に固く錠のおろしてある。”
そして,篤志看護婦の題で、“アストリアのホテル、その石造の大建築物の屋上に高く旭日旗が翻って行来のひとのいきつつあるのは,フランスに派遣された わが日本赤十字社救護の働いている場所です。”パリのホテルアストリアを拠点に約1年半に亘り,日本赤十字社が負傷者の救護にあたったと報告しています。
帰国後、父親をモデルにした歴史小説“夜明け前”を中央公論に連載。自然主義作家としての地位を確立し、1941年には、東條英樹陸軍大臣の戦陣訓の文案作成にも参画しています。
昔から戦争における死者は実際の戦闘によるものより、戦病死が圧倒的に多いのが通例でした。不衛生な環境で密集した生活の場では、感染は蔓延し多くの死者を出していました。
また、食事による低栄養も問題でした。日清戦争時、脚気による死者4000人に対し、戦闘ではわずか293人の死亡。日露戦争では約2万8700人の脚気による死者に対して、戦闘では4万7000人の死者をだしています。海軍においては麦飯採用によりビタミンB1の欠乏を補ったため脚気はまれなことになったものの、陸軍は白米供給を続け多くの脚気患者と死者がでました。
1914年に始まった第一次世界大戦では、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザが世界中に蔓延し、老人よりむしろ壮健な若者が多く死亡した特異な新型のインフルエンザでした。
当時協商側に後から参戦したアメリカは、陸軍医療衛生部隊が活躍し良好な衛生状態を保ち兵士も良好な健康状態でした。
しかし、1918年8月になり、フランス戦線に送り出される兵士のキャンプで、はじめてインフルエンザが発生、急速に流行、たちまち兵士の20%から30%が活動不能になり、毎日100人近くが重症の肺炎にかかり死亡しはじめました。この軍事訓練のキャンプでは、結局兵士の3分の1にあたる1万7000人がインフルエンザにかかり、787人が死亡し、十分な訓練はできない状態においこまれていきました。
1918年秋から終戦までに船でヨーローッパに運ばれた12万9000人の兵士のうち2000人が船中で亡くなり、又上陸後9月10月11月の3ヶ月でアメリカ軍だけで約1万人の兵士がインフルエンザによる肺炎で死亡しています。これと同様の感染がイギリス、フランス、ドイツ兵にもおこっていました。
1918年9月から1919年6月にかけて、結果的にインフルエンザで死亡したアメリカの兵士は、戦闘で死亡した兵士とほぼ同数になり、そして、アメリカ市民の死亡者数はその10倍の67万人以上になりました。同じ時期日本でのスペイン風邪による死者は48万人に上り、世界中では、戦争での死者の2倍の3000万人から4000万人が死亡したと推定されています。
一般の風邪もインフルエンザもヴィールスによる呼吸器を中心とした感染症ですがそれぞれ全く症状も重症の程度も違っています。
インフルエンザは急に熱がでて、典型的な場合高熱で関節の痛みや全身の症状が強くでます。そして、まれに高齢者や子供で死亡することがあるもののそれほど致命率の高いものではありません。スペイン風邪のように20歳から30歳の壮健な人の肺をおかし、肺水腫状態から高い死亡率をもたらし,感染力の強い悪性のインフルエンザは非常にまれなことです。この新型の悪性インフルエンザがどのように発生したかは未だ不明です。
インフルエンザヴィールスは表面にHとNの突起をもっていて、これの型によって、Aソ連型などの名前がつけられています。人から人にこのヴィールスが感染していく過程で,突起が変異して、感染力の強い、しかも死亡率の高い悪性のインフルエンザに変化した可能性が考えられています。
現在、世界各地で散発的にみられる鳥インフルエンザが、もし人から人への感染力をもった新型インフルエンザになったら、一気に世界的な大流行をおこし、1918年のスペイン風邪と同様のパンデミックがおこるのではないかと恐れられています。