2024/02/11

感情の生まれるところ



 ボロゴンジャ川から、エメラルドのような緑色をしたなだらかな丘が、一定の間隔で生えた木々とともに広がっている。地平線まで一望できるが、至るところに木々が小さな木立をなして点在している。草原はこれ以上ないほどの緑色に染まっている。動物たちはあらゆる丘を覆い、一頭で、あるいは群ををなして平原に立ち、木立に出たり入ったりし、低地ではエサを食べている。アフリカのセレゲティは人類が誕生したサバンナで、そこではヌーやシマウマ、ゾウやキリンなどの大型草食の哺乳類とそれらを捕食するライオン、チーターやハイエナなど野生動物の王国である。


 そのサバンナで人類は生まれ、飢餓、病気、捕食者からまぬがれ知性を進化させ、生きてきた。人間は意識する自分が、充分な情報を持っていない時、行動に移すのは、私たちを支配する感情である。

人類はアフリカで200万年ほど前にホモ属が生まれ、その中で現生人類が生き残った。その祖先から生まれた現代人の脳の中では、誰もが、1日に何百何千の感情が生まれ、忘れ去られている。つらい感情や、不安を感じない人はいません。いつも幸せな気持ちでいられないなら、感情などないほうがいいとさえ思いたくなる事さえあります。


 実際それはあり得ない、無理な事です。 人類が地球上で存在し、生き長らえたのは、その不安や、恐怖の感情があったため危機から逃れることができた、絶対に必要な働きをするものでした。 今より危険に満ちた環境のサバンナでは、人の生存を脅かす危険な状態に出会うと、心は激しい恐怖や危機感を感じ、すぐに反応して行動する。起こされた行動の結果で、生るか死ぬかは決定ずけられます。これが感情のもっとも重要な役割で、人の体と脳は気分良く暮らすために進化したのではなく、この地球上で生き延び子供を残すために進化してきたのです。感情が、人の行動を決めるのです。その決断が、環境に適応しなければ命を失います。時には危険な相手に向かっていったために、命をなくしたり、時にはじっとしていて逃げる行動を取らないで相手に捕食されれてしまったりします。空腹を感じると、食料を求め食べて、満足する。それからしばらくすると、また空腹感が訪れ、再び食料を求める。これと同じように、幸福感も脳で感じるのは、ほんのわずかの時間で、すぐに心は移ろい生存ために感情は働き始めます。

 

 その感情の生まれるところは、最近の脳の研究でかなり詳しくわかってきました 昔々、人類が生まれ、生存のために役立っていた不安の正体は、扁桃体が働いて、何かおかしいと体に働きかけるシステムが出来上がりました。この側頭葉の奥深くにある扁桃体は、いろいろな知覚の刺激が大脳に届く前に、チェックする役割であり、人の体に危険が迫ると、この扁桃体が瞬時に働いて、強い不安感が起き、パニック障害に近い状態に体はなり、危険を回避します。 不安は危険の先取りの状態です。危険かもしれないあるいは何かおかしいという、漠然とした非常に不快な感情を言います。その役割を扁桃体が果たし、 目で見たり、耳で聞いたりする情報は、その後に脳の視覚野や聴覚野という部位に到達します。そして、起こっていることは何かがわかるのはその後のことです。このできごとが命に関係のない、何でもないことだと大脳が認識すれば、不安は消え去ります。不安感が扁桃体の過剰反応だとわかり安心するからです。



 人を行動に駆り立てる原動力は一体何なのか。ある日目を覚ましたとき、気分が妙に落ちこんだだ日もあれば、爽快で、何かをしてみたくなる時もある。人の心は、ある時は沈鬱になり、ある時は浮き浮き陽気になる。なぜこれほどまでにくるくる変わるのか。それは脳が感情を使ってその人を動かそうととするためで、これもまた人類の生存に必要な心の動きです。

 脳には海馬という記憶をする場所と、そのすぐ前に扁桃体並んでいます。この生存に重要な扁桃体の働いた時の、まるでついさっき起きたことのような鮮明な記憶は海馬に保存され、危険の回避に役立っています。楽しい記憶より、事故や災害の時の恐ろしい記憶は忘れようとしても、忘れられなくして危険から身を守り生き残りに役に立つようにできています。しかしこれが過剰にになれば、PTSDとなり、何度も何度もフラッシュバックし、思い出してしまう状態も起こります。


 そもそも記憶もまた固定したものではなく、正確に像として残っているわけでもありません。人の心は記憶された物事を、喜びや悲しみ、幸せな気分と不安や恐怖の感情とともに物語として創作しています。逆に感情を伴った記憶は、それを使ってその人の活動をコントロールする道具となります。高い崖から飛び降りるべきか、踏みとどまるべきか、水の中に飛び込むべきか、相手と戦うべきか、逃げ出すべきか、この時の行動は自信に満ちた記憶を思い浮かべるか、失敗した苦い記憶を思いだすかにかかっているからです。


 人々の生活する地球上には、様々な天変地変や自然の災害、あらゆる生き物の活動によって、予測できない、理不尽な事柄に満ちている。人は知性のみで生き残ったわけではなく、感情を揺さぶられる体験の記憶を使ってからとっさの行動で危機を逃れて生きてきました。この役割は脳の中の側頭葉の奥にあり、外からの情報を受け取り、体の中からとの情報を集めて、それをまとめ判断して、感情が生まれて来るわけで、知性はその後ゆっくりと大脳とともに発達してきました。そして理性は情念の奴隷になりました。



 ゆられ、ゆられ

もまれてもまれて

そのうちに、僕は

こんなに透きとほってきた


だが、ゆられるのは、らくなことではないよ。


外からも透いてみえるだろ。ほら。

僕の消化器のなかには

毛の禿びた歯刷子が一本、

それに、黄ろい水が少量。


心なんてきたならしいものは

あるもんかい。いまごろまで。

はらわたもろとも

波がさらっていった

                         クラゲの唄  金子光晴


2024/01/08

地震の記憶、心の記録 鴨長明の方丈記

 


 山は崩れて河を埋(うず)み、海は傾きて陸地(ろくじ)をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。渚漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は脚の立(たち)どをまどはす。


 方丈記のこの文は、鴨長明31才の時起きた時の記憶をもとに書かれたもので、都の東部琵琶湖の西岸に1185年(元暦2年)7月9日に、マグニチュード7.4と推定される大地震が起きた。「京の都の洛中洛外の民家や神社お寺は、ことごとく倒壊し、その音は、雷のようで、立ち上る塵はあたかも煙のようであった。龍であれば、雲に乗って逃げることができるのだが、羽がないので空を飛ぶこともできない。この世で最も恐ろしいのは地震なり。その後に余震がしばらく続き、日に20回30回と震え、それが10日、20日とすぎて間遠になり、やがて1日に4、5回、1日に2、3回、やがて1日おき、2、3日に1度となり、3ヵ月後にようやく収まった。」


 869年に貞観地震、887年に仁和地震が起こっている。これらは東日本大震災と同じ海溝型地震の可能性が強く、これらの後に起こった元暦の地震は、阪神大震災と同じ直下型地震と推定される。この元暦の地震のことを、4年前に死んだ平清盛が竜になって起こしたと「愚管抄」の中で、慈円も書き記している。


 鴨長明は、和歌の達人天台宗座主慈円と同じ年、1155年、下鴨神社の摂社の正禰宜の次男として生まれる。その京の都では、長明の生まれた翌年1156年に、保元の乱が起き、その後も大きな天変地異に次々と見舞われた。方丈記には長明が記載した災厄として、大地震のほか「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」を世の不思議として取り上げている。


 あるじはと問ふ人あらば女郎花やどのけしきを見よと答へよ


 1177年、長明23歳の時、安元の大火で、都の3分の1が焼かれ、3年後の4月には、竜巻により再び甚大な被害を受け、同年の6月に清盛は福原遷都を強行する。この23歳の時父親が死亡、父のあとを継ぐことを望んでいたものが、その後ろ盾を失い、自称孤児となってしまう。そして、長明26歳の時、新都福原を見るために、摂津国、今の神戸を訪れた。上の歌は摂津旅行の門出に詠んだものである。


「治承四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。家はこぼたれて淀川に浮かび、地は目の前に畠となる。」「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲のおもひをなせり。」


 神戸の福原は、「この地は狭く、条理をわるに足らず、北は山に沿って高く、南は海近くてくだれり。波の音つねにかまびすしく、しほ風ことにはげし。」そして空き地が多く、家がなかなか建たず、天皇や貴族は福原に移住し始めたものの、実際半年後には、そこを引き上げ京都に戻る。福原遷都は失敗に終わり、翌年には平清盛は亡くなる。


 我はただこむ世の闇もさもあればあれ君だに同じ道に迷はば


 その年、1181年、長明27歳の時、初めての歌集「鴨長明集」を百首詠んだ。それは、宮廷人ではない市井の人の心情を歌った和歌であった。その後はその時代の風潮に近い定家などの宮廷風の和歌を取り入れて、作風を技巧的な歌に変えていく。そうして、47才で後鳥羽院の和歌所の寄人に呼ばれ宮廷歌人の一人となる。後鳥羽上皇の勅撰和歌集である新古今集には10首の和歌が載せられた。


 1204年、長明50才の時、下鴨神社の禰宜の職に欠員ができ、長明は長い間望んでいた職につけるはずであった。しかし今度も実現せず、出家を決意し、京都北部の大原に隠棲する。5年ほどのち大原から、京都の南、日野の山中に住まいを移し、和歌を詠み、琴や琵琶を弾き、文筆活動に専念した。

長明は、方丈記を書いた前の年1211年、将軍頼朝の御忌日鎌倉を訪れ、源実朝に会い、一首の和歌を詠み堂の柱に書き記した。


 草も木も靡(なびき)し秋の霜消えて空しき苔を払ふ山風


 草木もなびく頼朝の没後、世が虚しい空白となり、山嵐が空しく吹く情景は、実朝と会い和歌の、詩人どうしの会話の後、長明の残した一首であった。荒涼感漂う無常の歌であった。それは実朝の和歌の指南役になれなかったためか、あるいは鎌倉幕府への失望感か、何れにしても、長明の万感の思いが込められている。


 翌年長明58才の時1212年「方丈記」を書く。新たな試みの新しい文体で、世間と自然を描いた。長明が20才から30才代に経験した災害で京の都が崩壊し、飢饉で亡くなる人々の様子をリアルな筆致で描き出した。自らの住まいも次第に縮小し、方丈庵になる様子は、「旅人の一夜の宿をつくり、老たる蚕の繭を営むがごとし。これを中ごろのすみかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齢(よわい)は歳々に高く、すみかは折々に狭し。その家のありさま、よの常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは七尺がうちなり。」

 茶室のようなその住まいに、阿弥陀仏と普賢菩薩の絵を掛け、机には法華経を置く、竹の吊り棚の上には、竹編みの箱。その中には和歌の書、音楽の書、仏書の抜き書きを入れた。そばに折りたたみ式の琴と琵琶を立て掛けた。そしてその庵での暮らし、里山の中の自然の中の隠遁生活を楽しんだ。日野山のふもとの方丈庵の近くには、山守の小屋があって男の子が住んでいた。


「かれは十歳、これは六十。その齢(よわい)ことのほかなれど、心なぐさむること、これ同じ。或いは茅花(つばな)を抜き、岩梨(いわなし、ツツジ科の植物)を採り、零余子(ぬかご 葉の付け根の球状の芽)を盛り、芹(せり)を摘む。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて穂組をつくる。」

子供たちと遊び、春の藤の花、夏のほととぎす、秋のひぐらし、冬の雪に囲まれて、時に曲を弾き、時に読経をし、時に仮眠をした。


 こうして、世を捨て、名利を捨て、住まいを捨て、「ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづからの情(こころ)をやしなふばかりなり」として山林に暮らした。しかし、「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり、すみかはすなはち、浄名居士(インドの高僧)の趾をけがせりといへども、たもつところはわずかに周利槃特(ブッダの弟子でダメ弟子)が行ひにだにおよばず。もし、これ貧賎のみずから悩ますか、はたまた妄心のいたりで狂せるか。」しかしその問いに対して心は全く答えず。ただ念仏を2、3回唱えて終わった。

「建暦二年、弥生の晦日ごろ、桑門の蓮胤(長明の著者名)、外山の庵にして、これを記す。」で方丈記を書き終えた。


 その後、長明は方丈庵の閑居を愛する心を捨て、心を養うという世界から、さらに仏の教えのままに牧士にならんとして「発心集」を書いた。しかし、往生要集などと違って「道のほとりのあだ言の中に、我が一念の発心を楽しむばかりなり。」を発心集の序の結びにし、1216年(健保4年)62歳で亡くなる。


2023/12/13

  京の絵師 与謝蕪村




 やぶ入や 浪花を出て 長柄川


春風や 堤長うして 家遠し


薮入りの 寝るやひとりの 親の側

                     春風馬堤曲          蕪村


 やぶ入りとは正月と盆の16日前後に、奉公人が親元に帰る休暇。


 蕪村は1716年(享保元年)徳川吉宗の時代に生まれる。同じ年に京の青物問屋に生まれた、若冲がいた。蕪村の出生地は、大阪の北の郊外、淀川沿いの毛馬村で、春風馬堤曲は生まれ故郷、毛馬村の原風景を描いている。 関ヶ原の戦いから100年、国内には大きな戦争はなく、人々は天下泰平の世に暮らしていた。しかし徳川幕府は、この時代極端な財政赤字で、それを立て直すため徳川吉宗は改革に乗り出していた。享保の改革と呼ばれる政策で、幕府自らの歳出削減のための倹約に努め、収入を増加させるための、年貢の取り立て強化しそして、新田開発と殖産興業を推進し財政再建をおこなった。

 20才の頃、大阪を離れ、江戸に向かい巴人という俳人のもとで俳諧を学ぶ。巴人は居を「夜半亭」と名ずけそこに蕪村は住み込む。27才で師匠と死別。その後、あちこちの遊歴を重ね結城で早見晋我の世話になり住む、75才の早見晋我と死別、「北寿老仙をいたむ」をつくった。


君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に

何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ

をかのべ何ぞかくかなしき

たんぽぽ(蒲公)の黄になづな(薺)のしろう咲たる

見る人ぞなき


我庵のあみだ仏ともし火もものせず

花もまいらせずすごすごとたたずめる今宵は

ことにたうとき


 師と別れ、芭蕉と同じ奥州に浄土宗の僧の衣を着て、旅をする。1751年36才の時、京に戻り、宮津や讃岐を訪れる。その後、京に定住し、1770年55才の時夜半亭二世をつぐ。


 

 18世紀後半、幕政は田沼意次がになった。田沼意次は蕪村や若冲の4年後1719年に生まれ、父親は足軽の身分であったが、徳川家治の信任を受けて、側用人になる。そして、徳川政権の初めから続く農村のコメ作中心の経済を、商業に重点を移し、近代的貨幣経済を取り入れ、経済活動を活発にしていった。 新田開発、蝦夷地開発、薬草の国産化などを行いコメ以外の産業を起こし、株仲間を多くの業種、油、青物市場、鰹節、薬、廻船などで認め、その運上金を幕府の税収とした。1760年からの27年間は、幕府は田沼時代と呼ばれ、近代化政策で町人文化が発展した。

 戦いもなく、豊かになり、京都、大阪、江戸の3大都市では徳川時代で最も文化が花咲いた時代であった。上田秋成は大阪で小説を書き、伊藤若冲や円山応挙などが京都で画家として活躍し、蕪村も俳句とともに陶淵明の世界を池大雅とともに絵画にした。江戸では、平賀源内や狂歌で知られる大田南畝、黄表紙作家の山東京伝などが活躍した。


 芥川龍之介は「蕪村も一朝一夕に蕪村になった訣ではありますまい。わたしはその精進の跡をはっきり知りたいと思っています。」蕪村は、京都に戻ってから、清朝の画家、沈南蘋の模写をしたり、中国の王維の世界に憧れ、明の絵画に学び、俗世界からの離脱の絵を描いた。晩年にはそれから離れ、日本的な絵画に発展していった。そして、俳句と絵を合体させた俳画を作り出した。


 1771年大雅と蕪村の合作、十便十宣図ができた。当時の京都の画家の名前に、応挙、若冲、大雅、蕪村がある。18世紀の京都には多くの画家や、俳人や、小説家などの集まる人々の文化サークルがあった。そこに、中国文化の影響が見られる。黄檗宗の僧の持ち込んだ煎茶を飲み、中国の小説を読み、そして絵師は中国の絵画を学んだ。1731年徳川吉宗は絵画を好み、その招へいに応じて、中国人画家の沈南蘋が長崎を訪れ、1733年まで滞在した。そしてその写実的画風が日本人画家に大きな影響を与え、蕪村だけでなく、円山応挙、伊藤若冲、司馬江漢などもその画風を学び取り入れた。


      南蘋を牡丹の客や福西寺


 黄檗宗の福西寺に、中国の花、牡丹の咲く時に、中国浙江省生まれの中国人画家、南蘋を招く情景の俳句を蕪村は残している。黄檗宗は江戸時代に中国の禅宗の一派で、明朝の滅亡とともに中国から逃れ、日本に渡った禅宗の一派で、太鼓や中国楽器、銅鑼の音を境内に響かせ、中国語の読経で寺の中は満たされていた。


 京都に定住してから、百川の下で、山水人物画や俳画を習い、沈南蘋の精密花鳥画を模写し、次第に絵画の技術を身につけ、晩年に蕪村独自の画風を確立する。明画風の作品から、日本的な蕪村独自の絵に発展させていく。 


      筆濯ぐ応挙が鉢に氷哉


 円山応挙と親しかった蕪村は、応挙の制作の場を描いた。応挙の犬の絵、蟹や猫の絵に蕪村の句の合作作品も見られる。応挙の登場で京都中は新しい技法を身につけた写生を重視する応挙の絵画が席巻し、朝廷もこれを重用した。18世紀の京都文化、京都の絵師たちはその後も影響を残している。蕪村も子犬を描いた。円山応挙は写生を重視して、丸々とした子犬のふわふわした毛が特徴の子犬を残し、応挙の弟子長沢蘆雪の描く子犬は芦雪犬と呼ばれまん丸な体の生後間もない紀州犬をえがいて、今でも人気がある。



     月天心貧しき町を通りけり


「月天心に到る処、風水面に来る時。一般の清意の味わひ、料り得たり人の知ること少なるを」澄んだ月が天空に登る。風邪は水面を吹く。この清々しい気持ちを知る人は少ない。中国の「古文真宝」の「清夜吟」のなかの邵康節の漢詩の世界である。蕪村は唐の詩人王維とともに、古文真宝から多くの漢詩を学び、その思想に共鳴し、俳句にした。


そして上田秋成と俳人几董を通して親しくしていた。蕪村の死にあたり、秋成はこの漢詩、東風の世界を共有する友を悼み、句を送った。


   かな書きの 詩人西せり 東風吹きて                上田秋成


2023/11/20

帰らざる日々 日本の今

 


「恍惚の人」は1972年に出版された、有吉佐和子の長編小説。同居している義父の認知症が進行し、その介護に振り回される家族の生活や当時の社会が描き出され、今でも古風にならない、切実な問題を扱っている、当時は病気の実態もわからず、介護も施設がなく、家族が全てを抱え込んでいた。そして息子は父親の介護には関わらず、奥さん一人が献身的に介護する姿が描かれている。

 1960年代から1970年代の日本は若者の人口は非常に多く、若い人々のエネルギーが日本中にあふれ、東京オリンピックで盛り上がり、政府に抗議する運動も全国で起こり、大阪万博にも人々は殺到した。やがて多くの人口が日本の生産活動を支え、ものを作り、消費した。経済は活動力を高め、人々は豊かになり、GDPがアメリカに迫りつつあった。

 その後もさらに経済は活況を呈し、バブル時代を迎える。バブル崩壊以後失われた30年と呼ばれる長期低迷経済に日本は陥る。2008年に日本の人口は減り始め、地方では商店、飲食店なども減り始め、学校も閉鎖され、街はシャター街ができ、空き家や空き地が目立つようになった。その後も生産人口は減少し、所得税を支払う人口はますます減少し、税を払わない人が増え、養うべき人口は増加し、高齢者だけで3000万人となる少子高齢化の社会に突入した。

 

 この高齢化社会のもとで、社会福祉にかかる費用は増大してきた。世界的に少子高齢化は進んでいる、しかし日本は突出して老人人口が増えた。2005年に退職者一人は3.1人が支えていたものが、2020年には2.1人で一人を支えることとなった。日本の約30%に比べ、今年アメリカの65才以上の人口は約17%、カナダ、イギリスは19%、ヨーロッパは22%から24%であった。高齢化で福祉費用のうち医療費とともに介護費用は急激に増加してきた。2010年に比較して2倍以上に膨れ上がっている。

 認知症の社会の認識も進み、支える介護もできているものの、最近でも、介護を一人で抱えこみ、認知症の奥さんの世話に疲れ果てて殺害に至る事件が起きている。日本の認知症の人は高齢化とともに増加し、2025年には675万人になる予想で、65才以上の人の5.4人に一人がそのための介護が必要となる。そのほかの病気も抱えることになる65才以上の人口はその頃には30%を超え、日本の社会はそれに対する医療や介護の人材医療、介護の施設、それを裏づける予算が必要となる


  少子高齢化は労働人口が減り、生産し働く人口が不足する。その減った人口で増える老齢者人口を支えることになる。さらに労働人口のうち今後1000万人の介護医療の人材が必要となりその数は製造業の従事者を上回ることになる。働き手となる労働人口が減り、どの分野も人手不足になると、経済の成長は望めない。さらに稼ぎ手である人口は減って、支えられる人口が増えればその人たちの生活を少ない人々が支えなければならないため、社会負担はどんどん増えていく。人口減少が続けば、いずれ消費や投資が減退し、最終的に失業と貧困が増加し、出生率の低下と高齢化が高まることによって、労働意欲、労働生産性が低下し、広範な社会心理的停滞が引き起こされる心配がある 


 1970年ノーベル経済学賞受賞のホールサミュエルソンは社会保険の本質はそれが保険経済的に不健全なところにある。誰であれ退職年令に達すれば給付金を受け取る権利が与えられる。それは自分が払った拠出金をはるかに上回る。なぜこれが可能か、それは人口が増加する国では若者の数がつねに老人の数を上回るからだ。人口が増え続け、所得が増え続けることが条件となる。これは年金だけでなく、医療費や介護などの社会保障費にもあてはまる。



 戦前からヨーロッパの各国では少子化の対策がたてられていた。日本も1970年の後半から80年代にかけて出生率の低下が見られるも、一過性の現象で、国が産むことを奨励することには国民は批判的であった。1989年出生率が1.59となり、少子化の問題に気がつき、それ以降、少子化対策に政府も乗り出した。しかし当時、それほど社会全体のひっ迫感はなく、対策は立てられたもののほとんど成果はなかった。その結果21世紀に入って、少子化とともに高齢化が進み、社会保障分野の支出がふくらみ、消費税では不十分で国債を20兆円から30兆円発行して税金の足りない分を補っていった。

 2001年小泉政権の時、国債発行額を30兆円以下にする公約で2006年に一度だけ国債発行の増加を停止した。同時に社会保障費の増大に枠をはめたためこの政策は批判された。 医療介護費用はその後も増加を続け、この社会保障費の増大に対応するための税収は不十分で、これを補うために、国債を多く発行し、予算も増加させた。2019年新型コロナの世界的流行でこの対応に政府は国債を2020年に112兆円に増額し、21、22年はそれぞれ60兆円台となった。そして22年末で合計1000兆円を超えている。政府が年金をカットしたり、増税をすれば反発が大きくなかなかできない。そのため赤字を補うために、国債を発行し続けて対応してきた。


 ドイツ銀行の高官が今年、投資家へのメモで「日本円のファンダメンタルズは非常に弱く、世界で最もパーフォーマンスは悪い。トルコリラやアルゼンチンペソと同じ部類に入る。」と述べた。


 トルコは2023年5月の大統領選挙前、エルドアン候補は金利の高いことは悪いとしてインフレ率が30%近くと高い中8.5%の金利にした。この中央銀行のマイナス金利政策は、これによってリラが安くなり、観光客は増え、輸出は活発になり、投資も増えると理論で、結果的に、リラの信頼性は低下し、通貨の下落にみまわれた。野党は金融政策の正常化、金利を上げてインフレを抑えるように主張するも選挙に敗れ、エルドアン大統領となり高インフレ、通貨安の悪循環が起きた。その後、この悪循環を止めるため、金融緩和策は中止して利上げを開始した。


 アルゼンチンは、やはり100%を越すインフレで、金利は133%。そのためペソの価値は低下し、ドル紙幣を抱えて高級車や高級マンションを買う人が急増した。今年10月の大統領選挙で、マサ経済大臣が減税や社会保障費の増額を訴えてトップになり、中央銀行を廃止し、アルゼンチン通貨をドルに変更し歳出を削減する過激で急進的政策のミレイ氏が2位となり、11月の決選投票に持ち込まれた。マサ経済大臣の減税や負担軽減政策は間違っている。状況は危機的で、生ぬるいその場しのぎの対策は許されない、年率140%を超えるインフレの根本的解決には今の中央銀行を廃止して、ペソを廃止して、ドルをアルゼンチンの通貨にして、バラマキ政策をやめると唱え、若者を中心とした支持が集まり、ミレイ氏の勝利に終わった。


 経済が混乱し、政治が対立すると選挙に有利な減税や社会保障の増額や金利を低くする政策は支持される。しかし、それが続くと国家の財政が破綻してしまう。 お上だのみの日本の風土であっても、政策を決める側が、日本国民に対して今の財政の状態や今後の見通しについて本当の事をわかりやすく説明する必要はあります。

2023/10/26

新古今和歌集の時代 2  プリンセス式子と藤原定家

 


 古代、文化を作る力や祭祀と政治は未分化であった。奈良時代に政治は、祭祀の中に仏教を取り込み、外来の文字や文化を取り込んんだ。平安時代には、政治権力を握った宮廷は、文化の力としての歌、和歌を勅撰集というアンソロジーで示した。


 演劇舞台と同じで和歌の言葉は発声が重要であったと思われる。後白河上皇の今様は声を出し朗々と歌う、また和歌や念仏も声に出し朗々と歌われた。儀式はかねや太鼓音色とともに行われ、和歌は発声された言葉として伝えられる。

 後白河が天皇であった時代に、和歌以外にも昔からの歌として神楽、催馬楽、風俗があった。神楽は、神と人の一体化を目指す歌と舞。催馬楽は庶民の民謡を楽器外来の活気に乗せて歌うものあり、風俗は鴨神社など大神社での練習の歌や舞その他には以前から伝えられ、習い、覚えてきた歌である。そのほかに以前から、習え伝えられた歌があり、それを今様という。今様で神々への賛歌、神霊などの様子を示した歌で、田楽などとともに、これらの伝えられてきた歌は多く、分野も広い。そして上皇は若い日々からこの今様を1日中歌い明かして、日々を暮らしていた。


 鳥羽法皇がなくなり、崇徳上皇と後白河天皇の間の保元の乱が起き、後白河天皇は崇徳上皇を倒し、讃岐流刑にし、権力を握った。慈円の書いた通り、鳥羽院うせさせた給いて、武者の世になりにけるなり。式子内親王は1149年、後白河天皇の3女として生まれ、6才の時に保元の乱が起きたことになる。続く平治の乱で平清盛が武士として初めて権力を握り、武家である平家の世の中になる。

 その頃地震や台風などの自然災害が多発し、疫病も流行し、仏教の末法思想の通りの混乱に日本は陥ってゆく。式子は1159年10才の時、賀茂神社に入り、この世間とは隔絶した世界で、巫女として10年間生活する。巫女の生活から離れた後には、30才過ぎて、藤原俊成のもとで和歌を習い、その息子、藤原定家を知る。俊成と定家親子は度々式子内親王の住まいを訪れている。

 式子の歌は1200年後鳥羽上皇が企画した「正治初度百首」載せられ、藤原俊成、定家など限られたサークルの歌人から、京文化の中心に名を連ねることになった。新古今和歌集には25首が載せられた。約400首の和歌を残して、病気のため1201年、53才で亡くなる。


故郷へ今はと向かふ雁が音も別るる雲の曙の色


風さむみ木の葉はれゆく夜な夜なに残るくまなき庭の月影


花はいさそこはかとなく見わたせば霞ぞかをる春のあけぼの


思ふより見しより胸に焚く恋のけふうちつけに燃ゆるとや知る




 1162年に正四位下左京大夫という中級貴族の藤原俊成49才の時の次男として、藤原定家は生まれる。1180年18才の時、源氏が挙兵して、源平の戦が始まる。この年に、明月記を書き始める。1185年平家滅亡。定家は14才で麻疹に、16才で天然痘にかかり、病気との長い付き合いの人生が始まった。1182年20才の時、「堀河院題百首」をつくり家族や宮廷人にもその歌を高く評価された。


 かすが山ふもとの里にゆき消えてはるを知らするみねの松風


 天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月のひかりなりけり


 一方父親の俊成は右大臣九条兼実の和歌の師匠となり、1183年後白河院から「千載和歌集」を勅撰するようにと命じられその選者になる。和歌の歌壇の第一人者となった俊成は、式子内親王や寂蓮など多くの歌人を育てた。



       大空は梅の匂いにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月


  春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空


 息子の定家は、時の権力者九条兼実の家に仕え、その弟の慈円と会い和歌を通して知り合う。1200年38才で後鳥羽院に認められ、歌壇の一人者となる。翌年新古今和歌集の選者の一人となり4年の歳月をかけて、この勅撰和歌集を完成させる。定家の4才年上の姉は式子の女房として使え、式子の御所へは、その姉に会うためによく訪れていた。このころ13才年上の式子内親王の病気が悪化し、その屋敷をたびたび、見舞いで訪れたことを書き残している。


            来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ


 貴族社会から武家社会の転換期、多くの優れた歌人が生まれた。政治は武家の手に渡るも、文化は京の貴族のものであり、その文化の中心に和歌があった。鎌倉武士もこの貴族文化を身につけようと願い、源実朝は武家社会では傑出した京文化の担い手となる。この和歌の指導者の頂点に藤原俊成、定家親子がいた。そして、それを支えたのが後鳥羽上皇で、後鳥羽上皇の歌会に集う貴族文化を担う人々の集まる和歌所がつくられ、定家のほか長明、慈円、寂蓮、家隆、良経など貴族文化を担う人々が集まり和歌を競い合った。そうした文化的世界、貴族社会の中で、新古今和歌集は定家など5人によって編纂され、京の貴族文化の精華となった。


 1221年定家59才の時、後鳥羽院が承久の乱を起こす。源平の合戦の時と同じく、承久の乱に対しても「紅旗征伐我が事に非ず」として、政争に対して距離をおいた。定家には2人の息子と11人の姉妹がいた。長男は出家して仁和寺に、次男為家が歌人として定家の後を継いだ。「男女両息、吹挙の恩に依り、各生涯の望みを遂ぐ、感悦身に余るの由を申す」「予姉妹十一人、面々の官仕悉く此の恩有り」と記す。西行や慈円のように仏教に傾倒することはなく日吉神社に参詣しつつ、官職を務め昇進していった。1232年、71才の時、後堀河天皇のもとで新勅撰和歌集をつくる。


 父俊成、定家、そして子供の為家はともに勅撰和歌集を編纂した。俊成の「千載和歌集」定家の「新古今和歌集」為家は「続後撰集」である。武士の政権になるも、文化は京にあり、この文化の中心を藤原定家がになった。小説も書き、かな使いを確立し、平安時代の源氏物語や土佐日記を書写し、注釈し後世に残した。鎌倉幕府とも繋がりを持ち、定家は実朝の和歌を指導し、為家は、北条義時の孫娘と結婚した。藤原定家は日本文化のレジェンドであったが生活者としても安定した家族の世界を築き、80才の天寿を全うした。


 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ        藤原定家

2023/09/18

新古今和歌集の時代

 


 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ           西行


 西行は平清盛と同じ年1118年に生まれ、17歳で白河院の警護に当たる北面の武士となる。豊かで、流鏑馬や蹴鞠の名手であり、歌に秀いで、容姿端麗な佐藤義清は22歳の若さで出家する。出家後郊外の京都嵯峨の小倉山、鞍馬山の草庵で生活し、やがて吉野山に移る。


 この時代朝廷の権力は、白河法皇から子供の堀河天皇、その子の鳥羽天皇、さらに崇徳天皇を即位させ、白河法皇が3代43年間にわたり実権を握り続けた。

 白河法皇は養女の待賢門院タマ子を慈円の父の藤原忠通との結婚をを予定したが、ことわられ自らの孫の鳥羽天皇の中宮とした。結婚後の第一子の崇徳天皇の父親は白河院であった。

 その後鳥羽法皇が権力を握るもその死後,崇徳上皇と後白河天皇の間で、保元の乱が起きて、崇徳上皇は讃岐に流され、これに続く平治の乱で平清盛が権力を握り始める。


 西行は高野山で修行した後、伊勢に居を移し、二見ヶ浦に居を構え、源平合戦から、平家滅亡する日を過ごす。12世紀は摂関貴族が崩壊し、武士階級が台頭、きのうまで権勢と栄華を極めた権力は没落し、蔑視されていた勢力が今日は広大な権勢を振るっている。仏教の末法思想が世間に広がっていた。初回の陸奥旅行から40年経ち、69歳の年、新しい時代の武士の統領となった源頼朝に鎌倉で会い、奥州平泉に向かう。その後、義経の逃れた奥州藤原氏は1189年頼朝に滅ぼされた。その5ヶ月、西行なくなる。


 木のもとの花に今宵は埋もれてあかぬ梢を思ひあかさん            西行



 慈円1155年生まれる。その翌年保元の乱が起こる。慈円は摂政藤原忠通の子であり、父が死亡した後、13歳で出家。1192年頼朝が鎌倉幕府を開いた年、38歳で天台座主となる。鎌倉幕府は頼朝が政権を担い、京都では慈円の兄の兼実が後鳥羽天皇の院政下に政権を担う。慈円はその後も後鳥羽院との親交を結び、天下安泰を祈る仏法界の頂点に立つ。愚管抄を書き、天台宗の座主を務めた。


その慈円が西行に、真言教の教えについて尋ねたとき、西行は「まず和歌を稽古してください。和歌の心得が無ければ、真言の大事は心得ることができない。」と答えている。西行にとって和歌は一首をつくることは、観想であり、それとつながる言葉の発声は真言であった。心で観じ、口で詠み、手で書く詠歌の作業は、菩薩心に近ずく修業と同じであった。

 


愚管抄で慈円は院政も武家政治の出現も、それぞれ末世の兆候である。しかし摂関政治の堕落から院政が生まれ、古代天皇制の政治原則、輔弼する摂関的制度をなくして、院政という皇室の独裁政治が生まれる。その院政に対して、否定する武士が台頭してきたと慈円は書いている。そして武士の猜疑心を取り除いて協力させ、摂関家と武士の公武合体で君を貢献するのが最もよいと説いた。そして後鳥羽上皇の幕府政権討伐に反対を説いた。後鳥羽上皇は、慈円らの諌めにも関わらず、承久の乱で鎌倉幕府に戦いを挑み、敗北し隠岐の島に流罪となった。


後鳥羽上皇の指示によって藤原定家たちは、技巧的、構成主義の美学から、新古今和歌集を編纂した。後鳥羽上皇の西行の評価は非常に高く、生得の歌人であると賛嘆していた。この新古今和歌集には西行は94首、慈円の92首が次に多かった。そして多くの女流歌人 式子内親王、和泉式部の歌を推薦した。これらの女性は明治時代の、我とか、君が名をよびて死なん、とうたった与謝野晶子たちの明星の短歌を思わせる和歌もあった。


 わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋のゆふぐれ        慈円


 忘れてはうち嘆かるる夕かな我のみ知りて過ぐる月日を       式子内親王


 枕だに知らねば言はじみ見しままに君語るなよ春の世の夢      和泉式部


 平安時代の宗教は国土の安全を図り、国家を安定させるもので、仏を仰ぎ、これに祈祷を捧げ、祈願する、この世の利益を願い、悪鬼を退け無病息災を、極楽往生を祈願した。西行は空海に傾倒し、その神仏の心を和歌に込めた。慈円もまた天台宗筆頭で、時の政権王法を仏法で支えた。

 平安の末期は、地震洪水飢饉など天変地異が日本の国土で次々起こり、僧兵の武力行使、強盗の横行、都の大火で京の町は死体が散乱し、地方では無秩序でアナーキーな世界になってきた。そしてこの崩壊の感覚を受けて末法思想が日本を覆った。仏法、王法の秩序が崩れ、それに対して、仏教を政治的から離れて、宗教としての独立を目指した鎌倉新仏教の出現、宗教改革が起った。


 親鸞は1173年に生まれ、9歳で出家し慈円のもとで得度し、比叡山で修行をした。呪術を否定し、神仏の習合を否定した。「仏に帰依する者は終に更に其余の諸天神に帰依せず。」「かなしきかなや道俗の、良時吉日えらばしめ、天神地 をあがめつつ、ト占祭祀をつとめとす」「かなしきかなやこのごろの、和国の道俗みなともに、仏教の威儀をもととして、天地の鬼神を尊敬す」 こうして親鸞の浄土真宗は生まれた。 最後まで、絶対他力へ帰依する、生活をすべてそれにかける、一向宗の思想で、現生利益ではなく、万人の彼岸における救済を庶民に説いていった。


 呪術的祈祷の仏教からの脱却、親鸞の新宗教は既存の仏教や時の支配層からの弾圧を招いた。この鎌倉新宗教の台頭に対して、後鳥羽院は法然や親鸞に流刑を命じた。しかし庶民階級を中心にこの我が身の業を見つめ、阿弥陀仏の教えに帰依するという、他力本願、念仏信仰の思想は広がっていった。


明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは            親鸞

2023/09/12

プーチン大統領 独裁への道


「 
我々はギャングではない。マフィアでもない。ゴッドファーザーのように復讐を企てたりもしない。我々は国家、しかも法治国家だ。」




ウラジミール プーチン氏1990年代、サンクトペテルブルグ市の副市長となる。

地元の犯罪組織との関係を築いた。その中に10以上服役したプリゴジン氏も含まれる。

KGBのちのFSB(連邦保安庁)というロシアの情報機関は、密輸、資金浄化、殺人などの知識を持つ犯罪組織と常に関係を維持している。そしてロシア政府は国内や欧州各地で政権に逆らった人々の暗殺を指示し実行していると疑われている。このサンクトペテルブルグでプーチンの反対派のユーリーシュトフは投獄され、スタロヴオイトワ、民主活動家は誰かに銃殺された。こうして、サンクトペテルブルグ時代の目障りな人間、活動しすぎる人間は刑事事件で投獄されたり、何者かに暗殺された。


 1991年ソ連の保守派のクーデター未遂に反対したボリスエリチェンは政権を握った。そしてその富はオルガルヒに簒奪され、支配された。ウラジミール プーチンは1996年サンクトペテルブルグから大統領府の在外資産管理局のトップに抜擢されモスクワに移る。そこで大統領府第一副長官に昇進し、クレムリンにおけるナンバー3の役職から、さらにFSBの長官に任命された。1990年代、エリチェン政権は経済改革に失敗しロシア国家は破産状態におちり、体調の不調もあり、1999年12月31日テレビで突然の辞任を発表し、大統領代行にウラジミール プーチン氏がなる。2000年3月に大統領選挙が行われ、圧勝する。このロシアの混乱を乗り切るために、西欧の民主主義とは違った、ロシア型民主主義の政策を進めていく、すなわちロシアの近代化や自立した市民の代わりに、大統領権限の強化が進められた。オルガルヒをつぶし、マスコミを支配し、選挙を操作し法治国家はしだいに専制国家に変化していった。


 プーチン大統領の時代に、マスコミの支配を始めた。その方法は、メディア王のオルガルヒ、グシンスキーやベレゾフスキーの支配する独立系メディアは検察当局が横領容疑で、二人とも召喚する作業を進めていった。そして独立系メディアをつぶして経営権を取り上げた。 グシンスキーもべゾフスキーも国外に逃れた。その後、反政府的キャスターの解雇や、政府の圧力を恐れたメディアの自主規制によって政府の批判はできなくなった。テレビ司会者はたとえ偽の情報であっても、真実と言いくるめる。国営の放送局は、90%、民営のNTVでも70%以上は国家の情報を報道し、国民はそれに対して口を閉ざしている。

そしてエネルギーの支配権もオルガルヒから取り戻した。2003年石油王のボドルゴフスキーを脱税事件で投獄して、シベリアに収監しユコス社の彼の持分を没収した。こうして石油会社は国家のものとなった。その後知事も公選制は廃止され、政府の任命制になった。



2004年のロシア大統領選挙では、対立候補のルイプキンが何者かに誘拐され、「SP117」という自白剤を飲まされる事件が起きる。そして、プーチン大統領の再選は達成される。当時アメリカのブッシュ大統領は、2001年9月のアメリカ国内のテロ攻撃に対して、世界戦略を変更し、対テロの国家戦略を立て、2001年アフガニスタンでタリバン政権を倒し、2003年3月にはイラク戦争を起こし、フセイン政権を倒した。それらに対すて、プーチン政権は、アフガン侵攻にはむしろ協力的で反対せず、またイラク戦争にも関与しなかった。その後次第にプーチン政権の独裁化に対してアメリカは懐疑的になり、一方、ロシアはNATOの拡大を警戒し始めた。


2004年ブルガリア、ルーマニアとバルト3国のNATO加盟そして、同じ年、ウクライナでオレンジ革命が起こった。親ロシア派のヤヌコヴィッチに対して親西欧のユーシェンコの戦いになり、ユーシェンコは途中ダイオキシン中毒の毒殺未遂事件が起こり、1回目の開票はヤヌコヴィッチが勝利したものの不正選挙が疑われ、2回目の投票でユーシェンコが勝利した。前年のジョージアでの西側の政権誕生に引き続く西側の勝利であった。


ロシア国内では、2006年反政府的ジャーナリストのアンナ ポリトスカヤはアパートの前で何者かによって暗殺され、2007年イギリスに亡命したアレクサンドル リトヴィネンコはポロニウムによって殺害された。反政府のジャーナリストや政治家、あるいは亡命者たちは生命の危険にさらされることになる。これらはFSBあるいは他の組織の犯行か未だ明らかではない。現在ロシアでは、KGBの後継組織FSBの職員や協力者は多くの国家組織、企業、大学あるいは多くのNGOに浸透している。そして警察と検察、裁判所は政治的ライバルを排除する装置となった。


2008年プーチン大統領からメドヴェージェフに大統領は交代した。ロシア国外ではアラブの春で北アフリカの独裁政権、エジプトのムラバク大統領やリビアのカダフィー大佐は失脚した。2008年にはロシアはジョージアに侵攻した。


 2012年2期目のプーチン政権が発足した。このころから、プーチン大統領は外交政策でも国内政策でも反対派のご機嫌を取っても、何もうるものはないと確信した。政治の自由はソ連時代並みとなり、リベラル派は排除していった。政治的に独裁体制を固めると、次はロシア愛国主義の思想を固めていった。「ロシアは、ロシア人とロシア語と、ロシア文化のより結びつけられた文明的な国家であり、ロシア文化が我々を結びつけ、多様な世界に解体するのを防ぐ。」そして、文化防衛論的ロシア思想のもとに強国ロシアは対外行動を活発化させていく。


 2014年のソチオリンピック終了後、ウクライナのクリミア半島はロシアのハイブリッド戦争で、無血で征服された。住民投票を行い、住民の支持によりロシアに併合されたことにした。またウクライナ東部のロシア人住民の多い、地域では親ロシアの分離主義者が活動を活発化させ、マレーシア航空機を撃墜した。

 さらにシリアでアサド政権と反対勢力の内戦では、アサド政権が化学兵器を使ったことに対して、アメリカやイギリス、フランスはレッドラインを超えたとして空爆を実行する方針を固めた、その寸前で、ロシアは交渉に持ち込んだ。さらに、ロシアは空母を派遣し、ミサイルを発射し、シリア内のロシア空軍基地から戦闘爆撃機を使って、反対派の都市を無差別に空爆した。その結果、リビアやイラクと違ってアサド政権は権力を維持した。この時ワグネルの傭兵を使った。このワグネルの指導者エフゲーネ プリゴジンは当時プーチンのシェフと呼ばれていた。


 2015年には、「個人の自由が絶対視されている。なんでも許す、不道徳性と利己性が、積極的に広められている。暴力、消費、快楽のカルトが植え込まれている。ドラッグ使用が合法化され、生命の自然な継続を否定するLGBTコミュニティーが形成されている。伝統的なロシアの精神的、道徳的、文化的、歴史的価値観はアメリカとその仲間により情報と心理的サボタージュと西欧化を通じて積極的に攻撃されている。」とプーチン大統領はイギリスの記者に語っている。これは権力を支えているシロヴィキや保守派そしてロシア国民に支持された。


2018年大統領選挙で前回より13%高い77%の支持率で当選した。共産党は12%、右派ジリノフスキーは6%の支持率であった。その後、西欧民主主義国家に対抗して、解体したソ連の復活、ロシア帝国の復権を目指して、対外活動を活発化していった。

2020年8月神経剤ノヴィチョクによるナワリヌイ氏暗殺未遂。2022年2月24日プーチン政権はウクライナ侵攻を開始。このプリゴジン氏率いるワグネルは民間企業であり、犯罪組織であり、ロシア政府の裏の活動を担っていた。プリゴジン氏は特別軍事作戦でウクライナ東部バフムトで戦闘を担い、裏社会から、ロシアの表の世界に現れ、世界で知られる存在になった。そして、2023年6月24日武装反乱を起こしモスクワに向かった。2023年8月サンクトペテルブルグに向けてモスクワをたったジェット機が爆発墜落し、ワグネルの指導者とともにプリゴジン氏は死亡した。



If anything in this life is certain.If history has taught us anything. It's that you can  …                                                                 

                                                                                                             

                                                                                                                        Don Corleone