2024/08/18

ニュータウンとタワーマンション

  ニュータウンの時代

 戦後の急速な都市化と高度経済成長の時代には、東京や大阪などの大都市圏でニュータウンが開発された。当時は、広い土地と新しい生活環境が提供される新しいニュータウンの戸建て住宅が、家族向けに非常に人気が高く、郊外でのマイホームはテレビでも憧れの街として登場していた。

 開発は自治体による大規模な住宅供給の一環として、製造業が日本の産業の中心になる時代に、職場と住居が近接、あるいは職場までの通勤が可能な、緑豊かな住まいとして開発された。1960年代から80年代にかけて、都市郊外を中心に、ニュータウンの建設が盛んになった。特に1970年からの約5年間は、全国で100カ所以上のニュータウンが開発された。その後も、1973年がピークで1990年のバブルの崩壊まで日本全国で造成され、

2000年以降、急速にニュータウンの建設は減少した。現在、国道交通省の全国ニュータウンリストによると、住んでいる人口は1千100万人、そのうち入居開始後40年以上のニュータウンだけで700万人が住んでいる。

  1989年ベルリンの壁が崩壊し、世界のグローバル化が進み、安価で豊かな労働人口が世界経済に参入し、企業は豊かな労働人口を求めて中国や東ヨーロッパに工場を建て始めた。日本企業もまた、中国やアジアの国々に資本を投入した。その結果、多くの製造業は海外に拠点を移し、海外で、安価な労働力を手に入れた。日本国内にある製造業の工場は縮小し、閉鎖されるようになってきた。

 そして日本は、バブルの崩壊の後に、30年デフレと言われる先進国病に陥った。第一に出生率の低下による少子化と高齢化。第二に、そのため社会保障費が膨らみ、その費用が恒常的に肥大化した。そして第三には国家の経済が成熟し国内産業の海外移転などで産業構造の空洞化のため低成長になった。

 産業構造の変化によって、かつてのニュータウンが依存していた工場や大規模企業の縮小や撤退で、通勤先が遠くなり、都心部への交通のアクセスが悪いと、働く人にとって魅力が薄れていった。さらに、家族の形態が変化し、2世代や3世代の同居はほとんどなくなった。それに拍車をかけたのが少子高齢化で、かつての平均寿命はますます伸び、平均寿命は80歳を超え、100歳以上の人口も現在約8万人になった。一方、少子化は歯止めがかからず、学校の生徒数は毎年減少して、小学校や中学校は統廃合に追い込まれる地域も出てきた。


 さらに国全体が少子高齢化になる中で、東京一極集中化が急速に進行してきた。かつての地方の中心的都市である大阪、名古屋、福岡、仙台、札幌からも若者が東京に流入している。それでも大阪や名古屋、福岡は、周辺の都市からは、現役の世代は流入し、都心部の再開発で、都市の行政や、産業を担う中枢機能は保たれている。一方、周辺の都市は、新陳代謝が起こらなくなったために、次第に経済的な吸引力が低下している。それと同時に周辺のニュータウンは、活力をうしなってきた。


 この現象は日本では、江戸時代の天保時代に遡る。天保の時代1830年頃、農村の飢饉がきっかけで、都市へ多くの住民が移り、特に江戸は、人口が増えすぎ、無宿者の犯罪も増えてきた。それに対して江戸幕府は水野忠邦が天保の改革の「人返し令」で、農民を地方に返し、荒廃した田畑を復興させようとした。しかし都市と農村の人々の不満は収まらず、地方再生の改革事業は失敗に終わった。


 タワーマンションの時代


 タワーマンションとは高さが20階以上で60メートル以上あり、共有の施設、緑地や空間を広く設ける建物を総称している。1980年代にかけて東京中心に立て始められたものの、高層住宅に対する抵抗感があり、当時は集合住宅が主流であった。バブル経済の崩壊後、2000年代に大都市圏での土地利用の効率化、都市開発プロジェクトの一環としてタワーマンションは本格的的に建て始められた。交通のアクセスが良く、コンビニを併設したりして生活の利便性がよく、マンション内にプールやジムが併設され、タワーマンションの人気が高まる。世界のグローバル化で産業構造が変化して、製造業が中心であったものが、日本でも情報産業やサービス業が拡大し、都市部で働く人にとって、職場に近い生活のできるタワーマンションは魅力的になってきた。

 さらに2013年の、デフレからの脱却のため、金利を低くして、お金を市場に行き渡らせて、景気を回復させるための緩和マネーが投資の目的もあって購買に向かわせたこと。世界的インフレによる材料費の値上がりとともに、10年前の2015年頃の東京の湾岸地区である晴海や豊洲では、タワーマンションの値段は高沸した。一方、中国では不動産価格の低迷や、中国国内での不動産が最長70年の使用権のみで、私有財産にはならないことや、国内資産の保有の不安から、日本やアジア各国の不動産を買う人々が増えている。日本の不動産であるタワーマンションもアクセスの良さや、安全性や、中国の富裕層にとっては魅力的な物件になっている。円安になるとともに、海外の豊かな人々も、東京の湾岸地区を中心としたタワーマンション購入に向かい、ブランド価値は高まり、社会的ステータスとしてますます人気になった。


 世界的にも、ニューヨーク市では、マンハッタンを中心に高級タワーマンションの建築が続き、海外の富裕層や、投資家はその豪華な内装や高級施設を求めて購入している。トロントでも急速な人口増加に対応した、高級住宅の建設が進み、アジアでは中国の北京、上海、深圳で高層住宅が林立している。パリなどの規制のある都市以外では、世界の都市競争とともに主要都市にはタワーマンションが次々と建設されている。


 アメリカでも、ピッツバーグのあるペンシルバニア州、デトロイトのあるミシガン州、オハイオ州やインディアナ州など産業構造の変化によって自動車産業や鉄鋼業が盛んな地域の工場は閉鎖され、グローバル化によって製造業は労働コストの低い国々に移転し、人口は減少しラストベルト地帯が生まれた。それを救済する公約を掲げてトランプ大統領が2017年当選した。

 一方、 トランプ大統領とその家族は、ニューヨーク市のマンハッタンに58階建てのトランプタワーを所有し、シカゴ、ラスベガス、ホノルルなどのアメリカ各地のトランプブランドのタワーマンションを持ち、トロント、バンクーバー、パナマ、フィリッピンにもトランプタワーを展開している。今後の展開最高級ブランドのトランンプタワーが、2025年ドバイにその後もサウジアラビアにも建てられる予定となている。


 今後、政治、経済、気候、災害などの急激な変動が起きない限り、この流れは当分続きそうに思われる。

2024/07/18

人の顔、人の心

 


 顔を認識する顔神経群(face patch)と呼ばれる脳のネットワークで顔だけに反応する6つの領域が発見された。これらは連動して、たとえ向きや形が少々変化しても誰であるかを顔から判断する。この顔神経群が障害されるさまざまな病気がある。 相貌失認症は眼や鼻、口はわかってもそれを一つにまとめられないために誰の顔かわからないことが起こる。 扁桃体が損傷されると、表情の失認がおこる。顔は認知できても、その表情の意味がわからない、恐怖の顔が認識できなくなる。そのために顔の情緒的意味が読み取れなくなる。また自閉症では顔の情報処理を普通と異なる方法で行う。そのため、相手の感情の原因を読み、行動を予測できない。その結果、人とはいい関係が結べないが、物とはいい関係を保つ。 カプグラ症候群では、顔の形と、感情的意味の情報が結びつかない。そして認知症になると相手の顔は認識できてもそれが誰であるかが解らなくなる。



 誰かの幸福感や恐怖の表情を見たときに活性化される脳の部分と、自分自身が幸福や恐怖を感じたときに活性化される脳の部分は同じである。こうして他人の行動を読み、他人の行動を予測する。ダイヤのエースを持ついかさま師の絵ようにその表情からその人の性格や行為まで読み取ることができた。17世紀の画家 ジョルジュ ド ラ トウールのダイヤのエースを持ついかさま師では、描いている4人の人物の心の状態が、絵だけでわかる。左側に派手な服装のいかさま師がカードを隠し、右側に裕福そうな服を着た、カードプレーヤー、真ん中の女性の目、これらを一目しただけで登場人物の心の状態が、性格に確信を持って読める。右端のカードから目を離さないプレーヤーはいかさま師に騙されているであろうと推測する。

 一般の人は人の表情から心を読んで心のうちのドラマを推測する。同じように絵画の登場人物の顔を見て、その絵を理解する。フェルメールの「ヴァージナルの前の二人」「婦人と召使」などの人々の表情から、脳にある記憶を当てはめその想像力を働かせ、絵の中の人物が何を考ええているかを夢中になって推測する。


 色彩の解放された印象派以降、肖像画も変化した。「私はいま、自らの裁量で色を使おうとしている。金髪を強調し、オレンジ色の色調、そしてクロム色や淡いレモンイエローに行きつく。頭の後ろに私がつくりうる中で最も豊かで濃い青を使い、無限の背景を描く。」こうして黄色や豊かで、濃い青色などコントラストの強い明る色を組み合わせて、顔を描いたゴッホ。あるいは不安な感情、強い情動を描いたムンクは新しい人物表現を生み出した。


 そしてココシュカは、フロイトに影響されて、心を読む肖像画を描き始めた。表面の下にある真実を求めモデルの内面を描くようになった。「私は肖像画を描く時外面的宗教的な名声や世的な名声社会的階級は気にしない。肖像画において衝撃を与えるのは、顔の表現の仕方か身振りから直感的に得ようとした描く人物についての真実である。」1909年から10年にかけて多くの肖像画、形や色の誇張や原始的な絵や戯画的な要素を組み合わせ様々な肖像画をを描いた。こうして表現主義の、誇張された像、不自然な色を使い見る人の感情に語りかける肖像画が生まれた。

 ヘレン シェルフベックは1862年フィンランドの首都ヘルシンキに生まれた。3歳のとき階段から落ちて、歩行ができなくなる。一才年下のムンクとともに、ノルウエーの美術学校で学び、1888年イギリスに住んでいたとき、病気から回復した春の日に小枝で遊んでいる、心と体の回復の瞬間をみずみずしい表情として描いた「快復期の子」は自身の精神の復活の絵だった。

1914年「黒い背景の自画像」を描く。この自画像の若々しい姿から1921年の「未完成の自画像」では劇的に変化し、「私の肖像画」は、「死んだような表情になるでしょう。このようにして画家というのは魂を暴くのね。」と手紙に記しているように自らの心の内を肖像画とした。1939年フィンランドの対ソ連戦争の時、「黒い口の自画像」を描いた。1945年晩年にスエーデンに逃れ「最後の自画像」を書き上げた。表情に表れた精神の様子を表現した肖像画で、その描く人の真実を絵として製作した。


 本物の猿の顔の写真をを見せてから、猿の漫画顔の形の丸、眼、まゆ、口、鼻、これらをいろいろ変形させて、どれを顔と認識するかを調べた。それらを認識するのにはまず顔の楕円形の輪郭の中に、眼や鼻、口が入っていない限り、顔と認めなかった、猿の顔全体には反応するが、眼や鼻だけには反応しなかった。さらに、目が漫画ののように可愛らしく大きくなると顔神経群の細胞が劇的に反応する。やはり漫画のミッキーマウスの大きな目の顔は猿にも好まれる。

 人は進化の過程で、人の顔に反応するようになり、誇張された顔に対して情動的に強く反応している。そして大きな眼や虹彩に特異的に反応する。これらの顔を見る神経群はは、情動や気分の調整に関わる扁桃体とつながっている。そして絵は顔の表情を、強調し、顔で心のイメージを伝える。

 日本の肖像画は武士や僧侶などの尊敬される人物を描くことが多く、簡素な背景に精神性を表す、穏やかな顔の肖像画が多く描かれてきた。江戸時代に、町人文化の華やかな時代、現世謳歌の時代、1794年(寛政6年)写楽の役者絵が登場した。顔の輪郭と眉、眼、鼻、口、それぞれの役者の顔かたちを誇張し、その人物の感情や、劇中の役柄とその性格まで描き出している。

 

 東洲斎写楽はまるで実験のように、顔の形、眉、眼、鼻、口それらをほんの少し変え、それによって表情は変わり、憂いを含む顔、優しい顔、怒った顔になり、そして穏やかな性格や豪快な性格になる様を歌舞伎役者の肖像画で描きだした。



写楽の一筆が、脳に起こす反応は絶大である。

2024/07/03

絵を見る脳 モネとクリムト

 




 印象派は古典派の絵のように物語を表現するのではなく、色彩によって情動を伝えようとした。印象派以前の絵画は、絵の背後にある宗教的あるいは神話の世界の風景や衣服や人物を通して、描かれた世界を理解していくことが重要であった。画家はいかにして立体的に、正確に、カメラのように絵画で再現するかが求められた。印象派は、この立体的な三次元の絵、キリスト教の真実の物語、神話を描く絵画を否定して誕生した。


 モネは自然の中の色彩とその配列と光の太陽光のもとに自然のきらめく様子、時間の経過とともに変化していく自然を描き出そうとした。1874年当時の主流の王立美術アカデミーに対抗して第一回印象派展に 印象 日の出を出品。そこには造形された構造はなく、外光による色の移り変わりをキャンパスに描いた。 第2回印象派展で、背景にうちわ、美しい赤の着物と日本的絵柄のモネの作品 ラ ジャポネーズが最も人気を呼んだ。


 この印象派展はルノアール、ドガ、ピサロなどの現在有名な画家が参加して1886年まで続いた。その後、この新しい手法は世界中の絵画に影響を与えた。アメリカ人画家ジョン シンガー サージェントはやはり印象派の作品カーネーション リリー リリー ローズと言う花が乱れて咲く夏の宵、少女2人がちょうちんをつるす風景を描いている。このちょうちんは日本の提灯で当時のジャポニズムの作品の一つである。


 絵や詩を見ることは感情をともなった作業である。風景や人物の絵を見てその色と形にボトムアップの脳内物質が放出され感情が生まれ、記憶と照らし合わせその絵を理解し評価する。絵画を観てボトムアップのシステムで見る人は最初に反応する。その後に前脳の働きで分析し解釈しようとする。印象派はこの最初の印象、ボトムアップを重視する。

 モネはルーアン大聖堂、積み藁、睡蓮、などで同じ場所を、絶えず変化する光の中で何度も描いた。一般に脳は色彩を見て赤色は、陽光の下での赤いネクタイが、日陰の暗いところでもやはり赤く見えるように脳の中で調整する。こうして色の恒常性は保たれる。モネはこの調整の仕組みにより生まれた画像を凌駕して、見たときの感覚そのままに描く努力を重ねた。

 印象派の色を使った情動の表現は、チューブ入りの絵の具により、戸外で絵を描くことができるようになったことで実現した。色や表情など情動の知覚が最初に、脳で処理され、そのあとに形態に関する情報の処理がなされている。印象派は明暗は強調せず、柔らかい線やぼんやりした輪郭を描いて、色彩に集中して見る人を引き付けるようにした。




 クリムトは1862年金細工の彫刻師の息子としてウィーンに生まれる。ウィーン美術工芸学校に建築装飾家として入学し、最初は建築の装飾を描いた。

 1894年32歳の時ウイーン大学の講堂の天井画を依頼される。モダニズムの始まりウイーン1900年と呼ばれる時代があった。当時ウイーンはハプスブルグ帝国、オーストリア ハンガリー帝国の首都として芸術文化の中心となり多くの建造物が次々と建てられた。1902年、ベートーベンを称える総合芸術建築、音楽、彫刻、絵画を組み合わせた新たな分離派ミュージアムが建てられ、その建物の部屋の壁にクリムトは絵を描いた。クリムトは当時この作品に対しての思いを、「幸福と愛を求めて苦悩する人類は、芸術が一つに統合されたときに最高の至福を得られる。」と語っている。 


 北欧のノルウエーで生まれたムンクは、1893年生命のフリーズの中の作品「叫び」を発表、不定形の形と色彩を使って無意識の世界、意識下の感情、心の奥の不安や恐怖を画面に表現した。クリムトもまた、ウイーン分離派を作り、無意識の不安や本能的衝動を表現するため、描写は平坦で、抽象的な装飾性を取り入れた作品を制作した。1907年に代表作The Kissを制作し、同じ年、肖像画アデーレ ブロッフォ バウワーを発表した。その表情の美しさ、斬新で複雑な模様は、新たな絵画、モダニズムの始まりであった。その後もダナエ、罌粟(ケシ)の野など次々と新たな作品を描き、1911年、画面左に孤独な死を右には命と愛を表す多くの人を、「死と生」を発表し、ヨーロッパ中で多くの芸術家に支持された。その3年後にサラエボ事件が勃発し、第一次大戦が始まり、オーストリア ハンガリー帝国は解体された。


ゴッホからムンク、クリムトにつながる画家は人々の意識的、無意識的な情動を引き起こす作品を生み出した。まず絵を見て色彩を最初に感じ、表情や姿、形が情動物質に働きかけ、意識的、無意識的な感情となり、やがてそれを脳が理解しようとする。

 フロイトは無意識の世界を発見し、そしてそれに操られる情動は精神生活をゆたかにするだけでなく、情動と理性は分かち難く結びついていて、合理的行動に影響を与える。意識の下に埋もれている情動は形を変えて表面化する、そしてその情動の奥にはエロスとタナトス(死への欲動)が潜んでいる。その発見は、絵画の世界に絶大な影響を与えた。

 クリムトは人間の心の奥にある生と死、エロスとタナトスの世界を絵として二次元の世界に描き出そうとした。アデーレを見て、肯定的情動だけでなく、鑑賞する人の脳内にドーパミンが出てニューロンを活性化させ、審美的依存症に似た感情が起こる。そして再びその絵を見たい気持ちが沸き起こる。ココシュカは語った。我々は皆フロイト主義者でありモダニストである。我々はみな、表面に現れたものの下の奥深くにあるものを理解したいと望んでいる。そして絵画を通して、美と醜の下の真実を描いた。


 この色彩による情動の表現の進化は、マチスなどのフォービズム、野獣派の画家のデフォルメした形態に色彩を配置した絵につながり、色彩ではなく形態を変容させたのはセザンヌであった。彼は自然の形態は立方体と円すいと球によって成り立っているとした。これが自然をいかに見るかのカギになるとして、風景画をこの三者で再構築した。この考えをさらに進め、ピカソやブラックは自然は立方体の連なりであるとしてキュビズムを作り出した。それはガンジンスキーやモンドリアンの抽象絵画につながる。


 脳の中では、自然を描いた印象派の絵を見るときと抽象的な絵を見るとき、脳で活性化される部分が異なり、脳内では違う経路で絵を見て理解しようとしている。宗教画と風景画、抽象画は絵を見た鑑賞者の頭の中では、それぞれ異なる神経経路を通って、異なる脳の部分が活性化され、異なる情動が引き起こされる。さらに、 シュールレアリズムのキリコやダリの絵画は、自然界の見慣れた風景や過去の規範的構図に反応する脳とは異なる、普通でない要素に反応する大脳の前頭葉が活性化される。

2024/06/23

脳は美をどのように感じるのか

1950年代にジョン リリー は人間の感覚が、外からの刺激の全くない状態でどのようになるのか、意識は外の刺激から生まれるのか、あるいは内部にあるのかを知るための実験をした。このアイソレーション タンクの実験で、時間とともに意識は変容し、幻覚や夢が現れ、時空の組み立て方が変化してきた。


 昔から、切断された手や足がまるで存在してそこに痛みを感じるファントム ペインが知られている。痛みもまた痛覚刺激が脳に達して痛みを感じるだけの単純な刺激と反応だけではなく、痛みという情動をともなった概念として脳の中で生み出される。


 痛みは皮膚や筋肉が傷つけられると皮膚は刺激が加わるとニューロンを伝って脊髄に入り、つぎのニューロンが視床にパルスを伝えさらに次のニューロンを介して大脳皮質に達して痛みを感じる。それに対して痛みを少なくする抑制システムがある。草原でライオンに襲われかまれ重症をおった人たちがその時痛みを軽く感じる程度であると話している。 これは痛みに対して脳や脊髄でオピオイド 麻薬様物質が放出され痛みを抑制するシステムが働くためである。その後、しばらくしてから脳がその状況を認識する。


 絵を前にして、まず感情が湧き上がる。美しい色の組み合わせ、心休まる風景は、ドーパミンを放出させ、穏やかな微笑み、穏やかな人々やその情景はエンドルフィンやオキシトシンバゾプレッシンに働き、恐怖を感じる画像や残虐な絵を見た時ノルアドレナリンが分泌される。宗教的静いつな情景はセロトニンを放出させる。 その後、脳の認知中枢からトップダウンで送られてくる信号と照らし合わせてその意味を見つける。トップダウンの処理は、情報の分類や意味付けに関わる大脳皮質と脳の別の部分の貯蔵されている記憶によって、脳の中でその絵を解釈し創造する。


 絵がもたらす視覚の情報は変わらなくても我々の情報の解釈が変わることは、エッシャーやルビンの壺など、だまし絵を見ていると、同じ絵が、あるとき壺と見えていたものが反転して人の横顔となって見えることで経験する。見ることは、現実にあった幻想をつくることである。視覚も痛みと同じように目で見て網膜がそれを感じてニューロンを伝って脳の視覚野にとどく。それに対して扁桃体や線条体で情動が生まれ、大脳の前頭前皮質が働いて、それを分析し、分類して、知覚する作業が行われている。 


 

 側頭葉の奥深くにある扁桃体は、いろいろな知覚の刺激が大脳に届く前に、チェックする役割がある。扁桃体へ感覚のデータが送られ、それを無意識に処理され、扁桃体がこの刺激を視床下部に送り、そこで身体の生理的反応、動悸などが起きる。人の体に危険が迫ると、この扁桃体が最初に働いて、漠然とした非常に不快な感情、不安感が起き、危険を回避する。その後、第2の回路を使って、目で見たり、耳で聞いたりする情報が脳の視覚野や聴覚野という部位に到達する。

 扁桃体は、大脳皮質の視覚や聴覚、触覚の感覚を感じる神経と結びつき、視床下部などの自律神経とも結びつき、さらに認識する大脳の前頭葉にも結ついている。扁桃体は、情動の働く脳のほとんどの領域とつながっている。ものを見て、感じる単なる知覚を、脳の中で情動的感じるように変換する。それに扁桃体が中心的役割を果たす。

 

 猿やマウスの扁桃体に障害が起きるとヘビや恐ろしい動物を危険と感じなくなり、身の回りの予想外の出来事に対応できなくなってしまう。人間でも先天的に扁桃体の機能障害を起こす稀な遺伝的病気のウルバッハ ビーテ病の人は他人の顔の表情から、怒りや恐怖を読みとることができなくなる。


 情動刺激は、肯定的で報われるか、否定的で罰せられるか、その中間かである。肯定的な情動は幸福感や快楽を生み出し、その刺激を求めるようになる。反対に否定的情動は喪失感や恐れの感情を生み出し、これから逃れようとする。扁桃体は刺激に反応する情動を評価する中心になる。扁桃体、海馬とともに大脳皮質の下にある線条体は近ずくべきか、避けるべきかの行動を起こす時に最初に働く。そして、そのあとに前頭前皮質が知覚と経験を整理して、情動と行動を統合する。

 まず刺激に対してはボトムアップの反応が起こる。刺激に対して報酬系のドーパミン、エンドルフィンシステムが働き、オキシトシン バゾプレッシン系も働き始める。そして注意を向けたり、新しいことを始めるためのノルアドレナリンが働き、安心や幸福感をもたらすセロトニン作動系が働き出す。これらは扁桃体につながり、情動は生まれる。見ることによる単なる知覚を、扁桃体で情動として感じることに変換される。

 そして、肯定的や否定的な知覚や情動をコントロールするシステム働きはじめ、大脳皮質の高次領域でそれが行われる。この脳の部位前頭葉で、絵をみて触発される海馬の中に記憶された情景、過去の感情と比較し評価する。情動だけでなく思考も前頭前皮質の高次領域が認知し、トップダウンでコントロールしている。


  


 絵画や詩は作者の感情を形にしたもので、多くの意味を込めている。芸術家は自然を観察し自然を感じとって、絵や言葉によって、感情と美意識を表現する。その鑑賞者もまた絵を見て、詩を読んで、快楽を感じ、脳内でそれに触発された創造物を生み出す。

 ヨーロッパの絵画は宗教画や神話や物語を絵にし、いかに立体的に正確に描くかが重要であった。それが、19世紀になり印象派の絵画になり自然の一瞬を捉え、その感情を形にしたもの、キャンパスの色彩や形が物語性や立体的構図より重要になった。20世紀絵画は、さらにそれを進め、クリムトの表現主義やピカソのキュービズムや抽象絵画を生み出した。現在それらの芸術が、脳の機能によりどのように生み出され、どのように鑑賞者の情動に働きかけるのか、そのメカニズムが次第に明らかになりつつある


2024/06/09

それぞれの季節 高浜虚子

       われの星燃えてをるなり星月夜

      爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え


 高浜虚子は1874年(明治7年)松山藩の武士の4男と知って生まれる。俳句は17 歳の時、1891年( 明治 24  )松山の中学校の級 友である河東碧梧桐の紹介で、正岡子規と文通したことに始まる。5 月,松 山に帰省した子規の家を訪ね、初めて対面した。10 月子規によって,本名に近い俳号・虚子が与えられた。25 4 月同校を卒業。9 月、 京都第三高等中学校に入学し下宿することになった。翌 26 9 月に一年遅れて,碧梧桐も同校に 入学し京都のこの下宿を「虚桐庵」「双 松庵」などと呼んで学生生活を送った。 

1897年( 明治 30年) 極堂が松山で俳誌『ホトトギス』を発刊し子規や碧梧桐らが寄 稿した。同年 6 月、24 歳の虚子は 末の兄、池内政夫の下宿経営を助けながら『国民新聞』の俳句選を担当した。1898年( 明治 31 年) に俳句はある点で絵画と一致する が、音楽的な語調が大切だと書いた俳句入門を出している。『ホトトギス』は松山での運営 が困難となり同年9 月東京、神田錦町の自宅に発行所を移して虚子が主宰することになっ た。

                  遠山に日の当りたる枯野かな


 病の床にあった子規は1902年(明治 35 年)容態が急変し36 歳で世を去った。この明治30年代は短歌では明星の与謝野晶子のみだれ髪がブームを起こし、明星の時代であった。明星の主催者与謝野鉄幹の主情的な心の表現と正岡子規のホトトギスの写生による短歌や俳句は当時の文学界で対立していた。

 俳句界は、正岡子規という大きな 柱を失った。そして碧梧桐は子規の後を継いで新聞『日本』掲載の日本俳句欄の選者となり、日本派 と呼ばれるようになり『ホトトギス』の経営に携わる虚子のホトトギス派と二つの勢力に分 かれる形となった。


    金亀子(こがねむし)擲つ(なげうつ)闇の深さかな 


 1908年(明治41年) 国民新聞社に入る。翌年から数年、虚子は俳句からはなれ、小説『鶏 頭』『寒玉集』『俳諧師』『続俳諧師』『凡人』 などを書いた。 

1910年(明治 43年)秋、虚子は国民新聞社を退社 、44年 1 経営のため『ホトトギス』に復帰し た。

 当時、俳句の従来の形をなくした、季題季語の無用論や定型 17 字に合わない自 由律などが唱えられそれが流行し始めた。そこで虚子はこれに対峙し1913年(大正 2 年)、39 歳で俳壇に復帰する意志を固めた。 

   春風や闘志いだきて丘に立つ 

 虚子は碧梧桐派の新傾向に対してやゝ技巧的な浮華な方面に走っていると考え、俳句は伝統を尊ぶ文芸であり、 俳句の伝統を重んずるべきである。すなわち季語や17字の字数の制限は必要で、写生のなかで清 新な仕事をするべきと主張した。 

 大正期のホトトギス派は渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、長谷川 零余子などが集めまり、分裂を繰り返す新傾向派に代わって、ホ トトギス派は俳壇の主流となった。

   鎌倉を驚かしたる余寒あり 

   野を焼いて歸れば燈火母やさし 

 虚子は俳句は花鳥諷詠をとなえた。春夏 秋冬四季の移り変りによって起る天然界の現象並びにそれに伴う人事界の現象を諷詠する 文学である。広い文壇にはさまざまのものがあってよい。そのなかで俳句は人事の葛藤纏 綿から離れて,自然に愛情を注ぎ、又それに報ゆる自然の愛情を享受して、自然を描写す る文芸として独特の価値を持っているというもので、17字定型、季題を与えられることによって逆に思考や感情の過剰さが抑えられると考えた。


 ホトトギスから水原秋桜子,山口誓子 や中村草田男、中村 汀女らが育っていった。 

  流れ行く大根の葉の早さかな 

 1926年(昭和 15 年)日本俳句作家協会が結成され、虚子は会長に就任した。その頃、俳句の新しい改革の運動が起こり、反戦的な西東三鬼、社会主義的な秋元不死男など伝統破壊の俳句作家たちは治安当局に弾圧され、活動 は休止させられた。

 戦後桑原武雄の俳句は思想を語る第一芸術の小説などとは違う第二芸術 であると発表し、論争となった。虚子は自分たちが俳句を始めた頃は、これを芸術と思うものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。それを桑原は十八級特進させてくれたのだ、結構じゃないか。と語った。俳句は思想を語らず、日常の存問が即ち俳句である、と俳句への道で書いている。西欧文学とは全く別の花鳥諷詠、客観写生を貫き、俳句に人生論や深刻な意味を持ち込むこととは反対の立場をつらぬきとおして終生俳句を創作した。

  落花生喰いつつ読むや罪と罰

  虚子一人銀河と共に西へ行く

  見栄もなく誇りも無くて老の春


  1959年(昭和 34 年) 4 1 日,鎌倉原の台の自宅で,虚子は脳出血のため意識不明になっ た。翌日永眠。享年 85

 

2024/05/31

依存症と脳内物質

 


   行進の 歌声きこゆヒトラーの演説すでに はてたるころか


  一隊は ハーケンクロイツの赤旗をたてつついきぬ この川上に


                                   斎藤茂吉

  

 斉藤茂吉は、1921年(大正12年)から1925(大正14年)ドイツのミュンヘンのクレペリンの元に留学中、ヒトラーのミュンヘン一揆にあって短歌をよんだ。


 100年前、フロイトが深層心理から精神分析の方法を生み出した頃、ドイツの精神科医エミール クレペリンは精神の病気にも神経に原因があり、それは脳の機能的障害ではないという説を唱えた。当時はそれを証明する手段はなく、単なる仮説に過ぎなかった。精神障害や依存症は長らく脳卒中や脳の外傷などの神経が損傷を受けた病気とは全く別物であるとみなされてきた。


 現在ではすべての精神障害、うつ病や不安障害だけでなく依存症もまた脳の障害であることがわかってきた。それは遺伝子の研究が進み、脳内を画像で見えるイメージング技術が発達し、動物を使った実験の成果による。とりわけマウスは恐怖や不安を感じるモデル動物として使われ、人間の精神疾患の研究を促した。

 

  依存症は、薬、アルコール、タバコなどの物を対象にした場合やギャンブル、食べ過ぎ、買い物のしすぎといった行動のこともある。いずれも意志の薄弱なためではなく、脳の変容により制御不能に陥った状態である。恐ろしい記憶は忘れようとしても突然鮮明な記憶がよみがえり、不安が不安を呼び、PTSDとなるのと同じように、快楽が暴走し、脳がドーパミンを過剰に作り出し、結果として依存症を引き起こす。


 依存症は、ある報酬に対する過度の反応である依存性のある物質によってそれは活性化される。脳のある領域は、食べ物でもギャンブルによるお金でも薬物と同じように活性化される部分がある。


 肥満の人やギャンブラーは、食事やお金の興奮が手に入るときの快楽は次第に減少する。それは活動が低下し快楽に慣れてしまってからで食べ物やお金のドーパミンに反応する反応が鈍くなるためである。 そのため薬物の依存症患者が薬物の摂取で同じ快楽を得るためにますます多くの薬が必要になる。同じように、肥満の人は食べ物を食べる量はますます多くなければ満足が得られなくなるし、ギャンブラーはギャンブルにつぎ込むお金がますます高額になる。そして脳の報酬系が変化し、依存症ができあがる。


 では人々を依存症にする物質ドーパミンとは何か。すべての肯定的な感情や快楽を感じる気持ちはドーパミンによって起こる。ドーパミンは1950年代に発見され、脳の奥深いところにある腹側被蓋野と黒質のニューロンから放出される。記憶の源である海馬、感情を統合する扁桃体、さらにそれらを統制する大脳皮質に軸索は伸びている。

 このドーパミンの関与する報酬の経路は生物の進化のかなり早い時期から見られ、身の回りの快楽もたらす刺激、食べ物や水や、生殖、社会活動をコントロールしている。

 そして、このドーパミンの発火は、最初は直接的刺激で起こっていたものが学習によって、期待や予兆の時点で発火するようになる。そうして習慣化した行動が、条件ずけられて、長期記憶になる。


 これと同じように依存性のあるニコチンでも、薬でもやはりドーパミンの産生ニューロンを刺激する。そしてこの中脳辺縁系のドーパミンの濃度を増やし、強い快楽を感じる。そしてこれが記憶され、タバコの煙をかいただけでタバコを吸いたくなる。こうして依存性のある薬やタバコなどはこれらと関連のある連想が再発を引き起こす。



 依存症の研究は、PETによるコカインの依存症患者と健常者の間で行われた。依存症のない患者では、コカインを与えると脳の報酬系の領域が活発に活動した。一方依存症の患者では脳内の活動は活発化しないことがわかった。

 さらにこのドーパミン系の報酬システムは猿やラットさらにはショウジョウバエにもある。動物で薬剤を与え依存症をつくると、人間と同じように、脳の報酬系の領域は活動がおこらなくなる。さらに、ストレスが加わると薬物乱用のリスクが高まる。さらにコカインなどがいくらでも手に入る環境に置いた動物は、依存症から、過剰摂取に至り自ら死に至る。


 コカインなどの依存性のある薬物は、ドーパミンが細胞の中に永くとどまり、脳の報酬系を乗っ取る。そして慣れ、薬物に対する耐性が生まれ、同じ高揚感を得るためにもっと多くの薬が必要になる。さらに薬とその場所や人、音楽時間の記憶が関連づけられ、その連想が薬を渇望するきっかけとなる。

 

 もしお腹が空いているときに食べ物が目の前に置かれたら、それを見ているだけでドーパミンの量が増える。食べる最中ではなく、その前にドーパミンは放出され、食べる行動を起こさせせる。そして食にありついて美味しいと感じさせるのは、エンドルフィンである。進化の過程で発達してきた、この快楽系の神経回路と快楽の記憶の報酬システムは、周りの状況をはやく的確に知ることが生存競争に必要だったためで、結果にかかわらず、新しい情報を探す、知的好奇心を本能的に持つように人間を進化させた。


 新しいことを学ぶと脳はドーパミンを出し、ドーパミンのおかげでさらに知識を得たいと思うようになる。新しい場所に行ってみたい。新しい世界を見てみたい。新しい人に会ってみたいという渇望はドーパミンの作用による。不確かな世界に生きる人類が報酬が得られるかどうかわからなくても探索の旅に出かけ、獲物に出会い、食料を得て生き延びてきた。


 現在アメリカでは50歳以下のアメリカ人の死因の第一位は薬物の過剰摂取であり、日本でも向精神薬や市販の薬の過剰摂取による死は急速に増えている。そして今年有名になったアメリカの野球賭博によるギャンブル依存症や日本国内のオンラインカジノやスポーツ賭博。これらは自分の意志によるものではなく、脳内のドーパミンなどの報酬系と記憶の働きによることがわかってきた。

2024/03/20

感情はいつ生まれたのか

 感情は普通周囲の環境からもたらすされる刺激に反応して一時的に生まれる。特定の感情が続いて固定化されたものを気分と呼ぶ。個人の気分はいろいろで安定した晴れやかな性質の人もいれば暗いレンズを通して見る人もいるこれは気質と呼ばれる

 


 人間の脳にはかつては爬虫類から受け継いだ、生存に必要な皮質下の神経回路があり、その上に初期の哺乳類から受け継いだ大脳辺縁系と呼ばれる情動システムがあり、その周囲を人類独特の理性を生み出している大脳皮質が乗っているというカール セーガンのエデンの恐竜のモデルは一般に人の進化のモデルとしてわかりやすく説明し、この説は知能の源流のモデルとして広く受け入れられてきた。しかし最近では全ての脳の部位が、あらゆる脊椎動物に備わっていることが明らかになり、人間の脳もまた、全ての判断や行動は内受容体の影響をうけていて、それから免れられないように解剖学的にできていることがわかってきた。


 世界は、様々な刺激、電磁波、音波、超音波、熱、などで満ちた混沌の世界で、この地球上の環境で、人は目覚めている時は常に、目、耳、鼻、舌、皮膚から情報を受け取っている。脳は過去の経験をつかって、シミュレーションし、このノイズだらけの情報と比べて、あったもの選びいらないものを無視し、意味を創りだす。見る、聞く、触れる、嗅ぐといった活動は外界に対する反応ではなく、それに対する脳でのシミュレーションである。ジョン リリーの感覚遮断(アイソレーション)実験のように下界からの刺激がなくなった時にも、脳は活発に活動し、新たに世界を組み立てる。


 様々な感覚の取り入れた刺激の情報が、ノイズでなく例えばミツバチがミツバチであり、それに触れれば刺され、それを避ける行動を起こすためには、ミツバチの色と形と羽音の感覚をち取り入れ、過去の経験からミツバチと判断し、刺すことの危険を予測して行動に移す、こうして脳は進化してきた。


 感情は、脳が周囲と体の中で起きていることをまとめあげてでつくりだされる。体内の刺激を受け取る、内受容体というものがある。その役割は、脳にとっては、自分の体もまた外界の一部に過ぎない体の中からの情報の理解とコントロールにある。心臓の動き、息をする、体温の変化などのあいまいな感覚の情報が、ノイズとともに脳に送られる、脳はこれらの感覚を意味あるものにして捉えることが必要となる。そのための予測を行う。感覚がとらえた外の世界を脳が解釈するのと同じ方法で、体内の動きをとらえ予想する。


 その内容は快、不快、興奮、清浄感などである。この内部の感覚、内受容のネットワークが体のあらゆる部位の情報を受け取って、蓄積された過去の感情的記憶から予想し、感覚入力と照らし合わせ、睡眠と食欲を調整し、心臓の鼓動や息の荒さを調節し、アドレナリン、エンドルフィン、セロトニン、オキシトシン、ドーパミンなどの出方を調節する。そして人の体を動かし、行動し、この世界を生き延びる。


 感情は、人を行動させるためにある。人は24時間内受容と感覚入力を使って予測し行動する。朝目覚めた時の気分、爽快なのか、憂鬱なのか、活動力が溢れているのか、退屈で倦怠感を感じているのか。人は爽快な気分になれば、活動を起こし、憂鬱な気分に襲われれば閉じこもる。 人は日々の生活で、気分、感情を情報として使っている。この食べ物はおいしいか、この人は信頼でき近ずいていいのか、あるいは危険で避けたほうがいいのか。

 これは知覚だけでなく、心の中で起こっていること全てに共通の出来事で、脳はシミュレーションしていくつかのものを一つにまとめ概念をつくり、別のいくつかのものを切り離す。概念を使って、外からの感覚刺激と、体内からの刺激の両方に意味を与える。このようにして胃が痛んだとき、その情報から空腹、ストレス、不安などの実態をつくりだす。この時の不安の気分は、痛みから生み出された情動である。情動とは、外界で起こっていることの関係が、胃の痛みなど体の感覚が何を意味するかをめぐって創りだされたもの、脳の生み出したものである。この感情、情動や欲望が人々に、大脳皮質を使って計画を立てさせ、行動に駆り立てる。


 感情は決断に必要である。内受容体のネットワークは、どこに集中すべきかを決めるの組織で、何かの事故で傷をうけると、意思決定が損なわれる。ある患者は、大怪我で脳の一部を損傷し、計算や活動などあらゆることは普通にできたものの、活動すべきか何をすべきかの舵がなくなり判断ができなくなってしまった。情熱、欲望や感情といった情念は知恵の獲得に必要なだけでなく、あらゆる判断に必要であることがわかった。


 愛犬家は、我が家の愛犬の喜怒哀楽をあらわす感情ががあると信じています。ではこれが人と同じ感情の生成メカニズムなのか。あるいは、イルカやクジラは感情を持ち、お互いにコミュニケーションを行い、親子関係を作っているのか。今、これらの動物も喜び悲しみ恐れなどの感情を持ち、生活を行なっている。そして高度な脳神経のネットワークを持ち、ドーパミンやセロトニンなどの神経伝達物質が存在し感情を調節していることがわかってきました。


 イルカやクジラの他に象や猿、一部の鳥類は感情を持っている可能性が高く、たこやいかなどにも感情がある可能性が示唆されています。生物は脊椎動物だけでなく、クラゲやタコも進化の過程で、外界を感じ、この感覚を頼りに行動を起こす、さらにこれを経験とする意識する感性がどこかで生まれた。生物の進化とともに、どこかの時点で、しだいに生き物の中に生まれてきたのは確かである。

 内的なできごと、経験にもとずく主観がタコなどの頭足動物にもすでにあるのか、体を制御するシステム、神経系を持った動物、脊椎動物で初めて現れるものなのか、高等動物に限られるは未だ解っていない。 さらに、神経が明滅するニューロンででき、それが感情や意識を生み出すとしたら、進化したAIもまた感情や意識を生み出すかもしれません。


ものごとは心にもとづき、

心を主とし、心によってつくり出される。      仏教経典「ダンマパダ」