2010/02/21

住処

 THE NOTEBOOCK『きみに読む物語』2004年ベストセラーのアメリカ映画です。

 療養施設に一人暮し、過去の思い出も相手もわからない認知症になっている初老の女性とそこにいつも通い、本を読んで聞かせるやはり年老いた男性の青春時代と2人の物語。


 1940年、渡り鳥と陽光のきらめく、美しい河の有る保養地ノースカロライナ州シーブルックでのノアとアリーの初恋物語。この物語はかつての2人の青春の思い出そのものであることを一瞬奇跡的に思い出し、やがて静かに亡くなっていく2人の愛情と絆を描きだしています。 

 その頃のアメリカは豊かで、主人公ノアが1772年に建てられた家を自分一人で改築した住居も広く美しい建物であり、医療施設も充実し、認知症の人もゆったりきれいな環境で療養生活が送られていた情景が描かれています。強い心の絆とともに,自然に囲まれた環境の美しさ、清潔な場所で静かに息をひきとる場面が多くの人に感動を与えました。


 戦後の日本では,病院も住居も粗末なもので、しかも多くは空襲で消失してしまっていました。住まいは、1951年度に51Cといわれるコンクリートの住宅建築が始まりました。これは公営住宅標準設計の名称で,そのうちの最も小さいタイプのものがCタイプで,わずか12坪しか無かったのは、戦後、資材の無い時代住まいをともかく造る必要があり、小さいながら地方では木造ではないはじめての鉄筋コンクリートによる公営住宅でした。この住宅ではじめて食事の出来る台所、ダイニングキッッチンの発想が取り入れられた。


 その5年後には日本住宅公団に受け継がれ何DKの個室とダイニングキッチンの定型住宅が出来上がり、高度経済成長の始まる時期で、都市に流入する若い世代、ニューファミリーの住処となりました。そして,子供達には個室があたえられ、戦前からの雑居生活は消えプライバシーが家庭内にも持ち込まれ,自立と孤独の訓練の場所と考えられていました。


 その後,日本が1960年台から,経済が急速に拡大する1980年にかけて、ニューファミリーが子供を育てるための住まいとして大量に住居が供給された。多くの都心部に団地が出来、それが次第に郊外に広がり、ニュータウンが建設され,庭付きの住宅が全国で建てられた。その後家庭はしだい変容し,さまざまな形の家族ができ、現在では高齢者や子供の介護ケアの場所としての住居と変化しています。


 一方,介護はさらに他の場所社会的介護施設へと移動しつつあります。最期の住処としてアメリカ映画のような舞台は夢かもしれません。

  

2010/02/14

小田実


小田実とベトナム戦争

「何でもみてやろう」を1961年、27才のとき発表。

1958年にアメリカからヨーロッパを通り、インド、バンコック、香港から帰国した青春放浪記の一冊で、第二次大戦後豊かなアメリカと復興しつつあるヨーロッパ、貧困のアジアを放浪し、そして高度経済成長期に入る日本に帰国した。

 10年後に描いた藤原新也は豊かになってきた日本を脱出し、インドを放浪し人間の存在,人間の生と死のあり方を語った。小田実は貧困社会インドでの人びとの生きる社会を描いた。2人の出発点の違い、インド放浪の視点の差は、大きな構造としての社会のあり方から世界を描くのか、人間存在そのものを写すかの視点のちがいであり、日本の豊かさの質的違いだった。

 

 その後、1960年代の日本では,新幹線が走り,高速道路が出来、1964年には東京オリンピックが開かれ、高度経済成長期が始まる時期でした。

 アメリカはフランスが撤退するとベトナムに介入し,1965年2月には北ベトナム爆撃が開始され、国内では学園紛争と反戦運動が起こり、ベトナム戦争の後方基地となっている日本とアメリカの戦争に反対する運動がしだいに盛り上がり、全国に広がっていきました

 1965年にはベトナムに平和を掲げたベ平連(ベトナムに平和を 市民連合)運動が小田実を中心にできあがり、開高 健,小中陽太郎たちも参加。八百屋さんも花屋さんもと呼びかけ,貧しい農業国の独立運動に近代的武力で侵攻するアメリカに反対する新しい形の市民運動を創り上げました。

 これは既製の政党に属する訳ではなく,自分で考え自分で行動する新たな市民運動のかたちでした。既製の左翼運動にあきたりない学生や多くの市民はこの新たな運動組織としてのべ平連に参加し、学生運動とともに1968年には全国に広がり最盛期を向かえました。

 べトナム戦争は、アメリカ国内でも今までの戦争と基本的な違いがありました。国内の人たちは政府の言う民主主義と全体主義の戦いであるという題目を疑い、若者たちはアメリカ国内で反戦を主張し政府を批判しました。

 その後1973年に解放戦線、北ベトナム,南ベトナム、アメリカの間にベトナム和平協定が結ばれ、アメリカ軍撤退とともに、1975年サイゴンは北ベトナム軍によって陥落しました。

  ベ平連運動も1974年に解散、政治の季節は終わり、日本は高度経済成長に突入し、大きな政治の物語がすたれていきました。小田実はこの間も大きな構想の大きな物語を一貫として追求し、またその死生観は大阪大空襲の経験から難死の思想にあり,唯物的であり続けまた視線はアジア、アフリカに向いていました。1988年に『HIROSIMA』でロータス賞を受賞し、1997年「『アボシ』を踏むで川端康成文学賞を受賞。

 阪神大震災以降は西宮に住んで,再び社会変革家としての活動を続け、行動する作家として社会の中の人間を描く全体小説を書き続け、晩年には「終わらない旅」、「河」3部作を書き上げました。

 

 

2010/01/11

藤原 新也


藤原新也

 1960年代以前の日本は、まだあらゆるものの中にアシア的なものを持っていた。それは 金子光晴の描いた、亜細亜、混沌として物質文明以前の世界。まだ貧しさと、飢餓と死が日常の生活の中に自然の暮らしの中にあった。

日本では、1960年代になるとこのアジア的なものがしだいに失われ、社会の近代化が始まり、 経済では高度経済成長期が始まり、物質的豊かさが始まった。この社会の変動に対して、1960年の後半には、学生達の反乱が社会運動となり、政治の季節をむかえた。

ちょうどこの時期1969年に日本を脱出してインドに放浪の旅に出かけ、1972年に著者最初の作品『印度放浪』を23才のとき書き上げた。

この中で自然と人間の生死も自然の一部であるインドを、「物質的貧困と同時に、日本が失いつつある生命の根本である熱をみた。私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生き物の命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の在り場所もはっきり見ることができた。」

そして、熱球の下で「インドは、命の在り場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性を持って自己を主張している。インドという国が国の近代化にいつも失敗するのは、その人びとの頭上の巨大な熱球の主張や、その分子である地上の熱の独自のうごめきや生命の主張というものを法によって規制できないところにある。さらに言えば、この国においては,熱が法にとってかわっているのだ。それが宗教というものだろう。」

 日本では、1960年代から始まった高度成長期は1980年代にはいり絶頂期を向かえつつあった。その1981年に東洋の端、イスタンブールのボスポラス海峡から東に、香港、台湾、朝鮮半島をたどり日本に至る新たな写真による紀行「全東洋街道」を発表。そこには物質的繁栄前のアジアが鮮やかに写し取られ写真による新たな文明紀行,文明論を生み出した。

1983年『東京漂流』を出版。インド、アジア漂流の体験から日本の豊かになる軌跡、繁栄が人々に何をもたらすのか、近代化がなにをもたらすのかを鋭く浮かび上がらせた。『日本人は戦後80年代になるまで自らを物によって救済することのみに奔走してきた。』

 その象徴は1980年東京郊外のベッドタウンおこった金属バット両親殺人事件で、青空の下の何の変哲もない住宅。この郊外の住宅は、高度成長期20年の間営々として築き上げた消費文明の成果であった。その家の完成とともに空疎化し崩壊した家庭の物語を一枚の写真に雄弁に無言のうちに語らせた。

 皮肉なことに、その後この日本が一歩先んじた近代化、物質的豊かさの追求が、アジアにおいては台湾、韓国、シンガポール,香港などで始まり、東南アジア、中国そして、現在では彼の青春の聖地であったインドにおいても起っている。

2009/09/27

ベトナム戦争と開高 健


開高 健のベトナム戦争

 “それぞれの国には、それぞれの土の匂いがする、 ベトナムの匂いはすべてニョク マム”で始まる ベトナム戦記を開高 健が1965年に発表。

 

 サイゴンの北にある森林地帯の共産軍(ベトコン)連帯司令部の破壊の作戦はベン キャットの名で呼ばれ、その南ベトナム軍による掃討作戦に同行し、ベトコン側の猛攻をうけ、200人の南ベトナム軍の第一大隊のうち生き残ったのは作者の開高健と秋元カメラマンを含め17人だった。

 

 この従軍体験を描き当時話題になった“ベトナム戦記”は、1964年から65年にかけて週刊朝日に連載されたルポをまとめたもので,当時のサイゴンの状況を報告しています。

 彼は多くの庶民、軍人、政府高官,アメリカ兵の話を聞き、混沌とした状況から真実をつかみ取ろうとしたルポルタージュを連載、今さらながら的確に未来を正しく予感していることに驚かされます。

 その時期、ベトナム戦争はまだ南ベトナムの小規模な内戦でした。その後、北ベトナム共産勢力対アメリカの戦争になり、やがて南ベトナム政府軍は解放戦線に破れることになります。すでにこのルポの中にその予想が書かれています。このベトナムの戦場の体験を題材に“輝ける闇”と“夏の闇”を小説化し戦場の現実、虚構でない人々の真実を描きました。

 ベトナムの歴史は被支配者との戦いの歴史で,1000年以上前から中国の圧力をうけ、19世紀にはいってからは、イギリスとのインド植民地化に対抗してフランスが1887年フランス領インドシナ連邦をつくり現在のラオス、カンボジアとともにベトナムは植民地化されました。

 1940年に日本軍が仏印に駐留しフランス軍を武装解除し。その日本軍が撤退すると、かつての植民地の再支配をねらうフランスと民族解放の抵抗運動がおこり、第一次インドシナ戦争と呼ばれています(1946年から1954年)。そのころの反植民地の戦いに参加した人はベトミンと呼ばれ、少数ながらその中には旧日本軍の兵士もいて、彼らを訓練,指揮していました。

 1954年ベトミン軍がフランス軍の拠点デェンビエンフーを陥落させ,フランスはベトナムから撤退。ジュネーブ協定で17度線の北と南にベトナムは分割されました。

  その後フランスに変わってアメリカが共産化のドミノ理論を唱え、南べトナムに軍隊を派遣しました。第二次インドシナ戦争(1960年から1975年)とよばれ,このルポの発表された1965年頃はまだ東南アジアの小さな国の内線が激しくなっている時期でした。

 やがてアメリカの北爆から、アメリカ正規軍投入、枯葉作戦、最新兵器を使い、対ゲリラ作戦を実行した10年にわたるベトナム戦争が1975年サイゴン陥落まで続くことになります。

 開高 健は“裸の王様”で芥川賞を受賞し、“青い月曜日”で自伝を描き、虚構の文学ではない、現実の中の正真正銘の人間を描く文学を生み出しました。1974年以降は、fishingで世界を飛び回り、“もっと広く”“もっと高く”“オーパ”などで釣りと人生と旅を謳歌しました。

ダナン ラング


ダナンラング

 ショック肺(ARDS)は,胸部外傷を伴わない重症の外傷患者にみられる進行性の肺の病変で、これがおこることは,第一次世界大戦の頃から知られていました。

 世界中に広く知られるようになったのは,ベトナム戦争のダナンの戦闘で、多くの症例が報告されてからです。戦場での外傷に対して,大量の輸液によってショックから生還する症例が増えてきたものの、原因不明で受傷後2から3日後に急性の呼吸不全がおこり死亡する症例が増えてきました。この激戦地の名前を冠してダナンラングと呼ばれ、一般にはショック肺(ARDS)として知られています。

 現在ショック肺あるいはARDSは人工呼吸器を使い,PEEPをかけ多くは救命できるようになりました。人工呼吸器は1960年代に使われ始め、息ができなくなった時、そう管といって、気管にチューブを入れ、それをとおして、空気を器械的に肺に送り込む装置です。それによって、肺に酸素は運ばれ、炭酸ガスが吐き出されます。原理は比較的簡単で呼吸を自分でする代わりに、器械をつかって外から酸素の混じった空気をふいごの原理で規則的に入れてやるわけです。

 今回の新型インフルエザでも,急速にウイルス性肺炎が進行し、肺不全 (ARDS)が悪化する症例がみられ、救命には、人工呼吸器が必要になります。現在乳幼児も使える新生児用の人工呼吸器は全国に3859台で、一度に多くの患者が罹患した時の人工呼器が不足しないように対策がたてられていま

2009/09/06

南方へ 金子光晴の放浪記




金子光晴の放浪記




古靴店

赤、青、黄の強い原色の郷愁(ノスタルジヤ)
濡れた燕がツイツイと走る5月の雨空、
狭い港町の、ペンキの板囲した貧しい古靴店がある。
店一ぱい、軒先にも、店にも、はげすすけた古靴、破れ靴、
大きな泥のままの長靴や、戯けた子供靴迄
すべて、この人の生に歩み疲れ、捨てられたものらの
朽壊れた廃船舶が聚っている。
 おお、悲しい哀傷的な港景だ。
人情よ、零落の甘さ、悔もなさ、慕しさよ。
俺は、只俺の人生が泣きたくなった。

 金子光晴 1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりの最初のヨーロッパ旅行の後、「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する、関東大震災のあと、「こがね蟲」でうたったヨーロッパの美意識の世界は崩れ去る。1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。

 その時の旅行記「マレー蘭印紀行」は1940年(昭和15年)に出版された。その後、「どくろ杯」で婦人の森三千代の小説を下敷きにして、中国放浪紀を書いた。続編の「眠れ巴里」がフランスでの2人の貧乏生活と巴里の日本人を描き、最後に「西ひがし」で3部作を完成させ昭和60年代から70年代に出版した。これらの紀行文は戦前の中国、アジア、ヨーロッパ、西と東の放浪記だった。

 
 最初に上海、シンガポールをおとずれる。戦前の国際都市上海の当時の混乱と猥雑ぶりを「上海は1つのかくはん機だ。ひきずりこまれた人間どもは混血となる。」
 マレーでは、日本の夏よりも高温多湿の植物、動物の生命のあふれるゴム園に滞在し マレーシアのバトパハにしばらく滞在した。
「パンジヤル マシンをのぼり
 バトパハ河をくだる
 両岸のニッパ椰子よ。
 ながれる水のうへ
 静思よ。
 はてない伴侶よ。
 文明のない、さびしい明るさが
 文明の一漂流物、私をながめる。
 胡椒や,ゴムの
 プランター達をながめたやうに。」

                       ニッパ椰子の唄



また、スマトラ島のメダンでは
「ジャワの風景は、鋤きかえされた陸田、ひび割れた土塊の骸ろである。馬来半島は、明るい雲雲の変化にみち、人間は軽薄な文化に憧れている。ここ、スマトラにわたってみると、老樹はいたるところに陰影をつくり、じぶんの室のなかにいても、くろぐろと繁茂するものの、ひそまりかえったしずかさが徹えてくる。
 おなじ植物でも、ここの植物は、すべて,そのうまれそだちが粗暴で、強力で、みのたけがずぬけてのっぽで、縦横無尽、おもいのままないきかたで、密生している。スマトラの自然は、いつも樹木の下陰になって、ひるでもまるで、夜のようだ。
 阿蘭風な低屋根がならんでいるメダン全市も猶、森林の延長であるのにほかならない。」

 放浪の旅から得たものは、みずからの古い日本を否定し、エトランゼとしての見方を身につけた人間になったこと。そして多くの文学者のように、日本を、昔を思い出し回帰することなく、たったひとり、うしろむきのおっとせいとなった。


   フランスをおとずれた人たちの中にはそれで箔ををつけて日本での生活の糧にする人がいた一方、金子光晴と三千代は底辺の生活を経験し、貧しい社会の底辺に暮すフランス人や外国人の生活を見て人間のあり方そのものを見出した。人種や国籍が違ってもその中に、日本人との差異より人間の中の同一性を見いだした。

 
珊瑚島

 「うつくしいなどと言う言葉では言い足りない。悲しいと言えばよいのだろうか。
 あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界に見える。」
「人間生活や意識に何のかかわりもないこんな島が、ひとりで明けはなれてゆくことを、暮れてゆくことを。人類世界の現実から、はるかかなたある島々を、人々は、意想イディアとよび無何有郷ユートピアとなづけているのではあるまいか。」

 

2009/08/23

ポルポト,赤軍、文化大革命


 村上 春樹の小説1Q84に、エリの父親が当時、毛沢東の革命思想を信奉しており、中国の文化大革命を支持していた。その後大学をやめ自給自足のコミューン「さきがけ」をつくる話から物語は展開していきます。
 この中国の文化大革命とよばれる時代は1966年から1976年の10年間で、日本では小説の中に描かれた通り、「中国の文化大革命はどれほど醜い、非人間的な側面をもっていたか、そんな情報は当時ほとんど我々の耳には入ってこなかった。毛沢東語録をかかげることは一部のインテリにとって、一種の知的ファッションにさえなっていた。」
 日本でもその影響下の党派ができ、後に連合赤軍という閉鎖集団をつくり、悲惨な結末を迎えることになりました。

 世界に目を向けると、ほとんど同じ時期にカンボジアでは、毛沢東思想の影響を色濃く受けたポルポトらの急進共産主義者がアメリカの支援をうけたロンノル派の政権を1975年4月にあっさりうちやぶり政権につきました。
 カンボジアはベトナム、ラオスとともにフランスの植民地として長い間支配されていましたが、第二次大戦後1954年のシアヌーク国王のもとに独立し、カンボジア王国をつくりました。ところが、1970年にアメリカに近いロンノルらのクーデターがおこり海外滞在中政権をうばわれてしまい、その後ホーチミンルートを断つという名目でアメリカ軍のカンボジア侵攻をゆるし、これがポルポト政権誕生のひきがねとなりました。

 アメリカのアカデミー賞受賞映画‘killing field’に描かれたように、名前を表に出さないオンカーが国家を支配し、人民はそのもとに身も心も捧げるものであり、オンカーの指令をうけ実行するのはクメール ルージュの兵士、村の指導者,共産党の幹部でした。ほとんどが貧農出身の若者で、10代も多く見られ、教育程度も低く粗野で,彼らの命令に従わないものは、逮捕や処刑が待っていました。そして字も読めない子供が医師や看護婦になり、中国の裸足の医者をまねていました。国家全体が強制労働キャンプと化し、700万人人口のうち150万以上の人が犠牲になりました。
 
 紅衛兵という、多くの10代の若者が動員され、逆らえば大衆の面縁で自己批判させられ、多くの死者も出した後、1976年4人組の逮捕により中国の文化大革命は終わりを向かえました。

 中国の文化大革命、カンボジアのポルポト政権、日本の赤軍派は同時代に多くの若い人たちにも影響を及ぼし、多くの犠牲者を出した共通点があり、最近当時の記録が数多く出版されています。社会条件によっては、夢物語が現実となり国家までも支配してしまう魔力を持ち、個人の夢見た理想主義が現実の政治では、逆に非人間的な組織になってしまうことをこの歴史は物語っています。