われの星燃えてをるなり星月夜
爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え
高浜虚子は1874年(明治7年)松山藩の武士の4男と知って生まれる。俳句は17 歳の時、1891年( 明治 24 年 )松山の中学校の級 友である河東碧梧桐の紹介で、正岡子規と文通したことに始まる。5 月,松 山に帰省した子規の家を訪ね、初めて対面した。10 月子規によって,本名に近い俳号・虚子が与えられた。25 年 4 月同校を卒業。9 月、 京都第三高等中学校に入学し下宿することになった。翌 26 年 9 月に一年遅れて,碧梧桐も同校に 入学し京都のこの下宿を「虚桐庵」「双 松庵」などと呼んで学生生活を送った。
1897年( 明治 30年) 極堂が松山で俳誌『ホトトギス』を発刊し子規や碧梧桐らが寄 稿した。同年 6 月、24 歳の虚子は 末の兄、池内政夫の下宿経営を助けながら『国民新聞』の俳句選を担当した。1898年( 明治 31 年) に俳句はある点で絵画と一致する が、音楽的な語調が大切だと書いた俳句入門を出している。『ホトトギス』は松山での運営 が困難となり同年9 月東京、神田錦町の自宅に発行所を移して虚子が主宰することになっ た。
遠山に日の当りたる枯野かな
病の床にあった子規は1902年(明治 35 年)容態が急変し36 歳で世を去った。この明治30年代は短歌では明星の与謝野晶子のみだれ髪がブームを起こし、明星の時代であった。明星の主催者与謝野鉄幹の主情的な心の表現と正岡子規のホトトギスの写生による短歌や俳句は当時の文学界で対立していた。
俳句界は、正岡子規という大きな 柱を失った。そして碧梧桐は子規の後を継いで新聞『日本』掲載の日本俳句欄の選者となり、日本派 と呼ばれるようになり『ホトトギス』の経営に携わる虚子のホトトギス派と二つの勢力に分 かれる形となった。
金亀子(こがねむし)擲つ(なげうつ)闇の深さかな
1908年(明治41年) 国民新聞社に入る。翌年から数年、虚子は俳句からはなれ、小説『鶏 頭』『寒玉集』『俳諧師』『続俳諧師』『凡人』 などを書いた。
1910年(明治 43年)秋、虚子は国民新聞社を退社 、44年 1 月経営のため『ホトトギス』に復帰し た。
当時、俳句の従来の形をなくした、季題季語の無用論や定型 17 字に合わない自 由律などが唱えられそれが流行し始めた。そこで虚子はこれに対峙し1913年(大正 2 年)、39 歳で俳壇に復帰する意志を固めた。
春風や闘志いだきて丘に立つ
虚子は碧梧桐派の新傾向に対してやゝ技巧的な浮華な方面に走っていると考え、俳句は伝統を尊ぶ文芸であり、 俳句の伝統を重んずるべきである。すなわち季語や17字の字数の制限は必要で、写生のなかで清 新な仕事をするべきと主張した。
大正期のホトトギス派は渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、長谷川 零余子などが集めまり、分裂を繰り返す新傾向派に代わって、ホ トトギス派は俳壇の主流となった。
鎌倉を驚かしたる余寒あり
野を焼いて歸れば燈火母やさし
虚子は俳句は花鳥諷詠をとなえた。春夏 秋冬四季の移り変りによって起る天然界の現象並びにそれに伴う人事界の現象を諷詠する 文学である。広い文壇にはさまざまのものがあってよい。そのなかで俳句は人事の葛藤纏 綿から離れて,自然に愛情を注ぎ、又それに報ゆる自然の愛情を享受して、自然を描写す る文芸として独特の価値を持っているというもので、17字定型、季題を与えられることによって逆に思考や感情の過剰さが抑えられると考えた。
ホトトギスから水原秋桜子,山口誓子 や中村草田男、中村 汀女らが育っていった。
流れ行く大根の葉の早さかな
1926年(昭和 15 年)日本俳句作家協会が結成され、虚子は会長に就任した。その頃、俳句の新しい改革の運動が起こり、反戦的な西東三鬼、社会主義的な秋元不死男など伝統破壊の俳句作家たちは治安当局に弾圧され、活動 は休止させられた。
戦後桑原武雄の俳句は思想を語る第一芸術の小説などとは違う第二芸術 であると発表し、論争となった。虚子は自分たちが俳句を始めた頃は、これを芸術と思うものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。それを桑原は十八級特進させてくれたのだ、結構じゃないか。と語った。俳句は思想を語らず、日常の存問が即ち俳句である、と俳句への道で書いている。西欧文学とは全く別の花鳥諷詠、客観写生を貫き、俳句に人生論や深刻な意味を持ち込むこととは反対の立場をつらぬきとおして終生俳句を創作した。
落花生喰いつつ読むや罪と罰
虚子一人銀河と共に西へ行く
見栄もなく誇りも無くて老の春
1959年(昭和 34 年) 4 月 1 日,鎌倉原の台の自宅で,虚子は脳出血のため意識不明になっ た。翌日永眠。享年 85 歳 。
